海の見える街
小高い丘を、ミシェルは空を飛ぶかの如く駆け下りた。風がミシェルを後押しするかのように強く、優しく吹いている。
「トネール、気持ちいいですね! これならあっという間に街に着いちゃいます」
ミシェルの肩の上で、猫のトネールはミャァと小さく鳴いた。二人の金色の美しい髪が風に靡き、キラキラと輝きを放つ。
「本当にお日様が地上に落っこちてきたかのようだね」
流れ星のような速さで、あっという間に駆け抜けていくミシェルを見ながら、農夫がウットリと漏らす。
数日前、突然現れた若く美しい魔女のことを、街の皆は親しみを込めて『地上の太陽』と、そう呼んでいた。
気さくで明るいミシェルはすぐに街に溶け込み、楽しそうに暮らしている。
「初めはドキドキしましたが、慣れれば慣れるものですね」
ミシェルはそう言って穏やかに微笑んだ。目の前には賑やかな市場と、キラキラと輝く海が見える。逸る心とは反対に、少しずつ少しずつスピードを落としていきながら、ミシェルはゆっくりと足を止めた。
「あら、ミシェルちゃん! 今日は随分早いのね」
「おはようございます、おばさま」
到着するなりミシェルに声を掛けたのは、街の入り口にあるパン屋の女主人だ。
この街に来て、一番初めにクリスが案内してくれた店で、これまで彼がいつもミシェルに届けてくれていたパンは、この店のものだと教えてもらった。以来ミシェルは、街に繰り出すたびに、一番にこの店を訪れるのである。
「今日はどれにする? 一つね、おすすめの新作があるんだよ」
「それは楽しみです! では、新作と、いつものを一つください」
「はいよっ」
慣れた様子で注文をしながら、ミシェルは笑った。
「ミシェルだ! 」
「おはよう、ミシェルちゃん! 」
「おはようございます、皆さん」
声を掛けてきたのは、ミシェルとちょうど同年代の少女たちだ。
彼女たちと引き合わせてくれたのもクリスで、ここでの生活に早くなじめるようにとの配慮だった。
(本当に、クリスには感謝しないと)
ミシェルは穏やかに微笑みながら、少女たちと向き直った。
「ねぇ、買い物が終わったら家に来ない? 皆でお茶でもしながら、ゆっくり話をしようって話してたの」
「わっ……私も行って良いのですか?」
「もちろん! トネールも一緒ね。待ってるから」
少女たちはそう言って手を振った。
それと同時に、パン屋の主人が大きな紙袋を手に戻ってくる。
「はい。少しおまけしといたから! 」
「わぁ! ありがとうございます」
「良いんだよ。それより仕事、見つかりそうかい? 」
「それが……」
言うなりミシェルはガックリと肩を落とした。
ミシェルが毎朝街に出掛ける理由、それは街に集まる求人情報を得るためだった。
クリスや彼の両親は、ミシェルにこれまで通りの生活をして良いと言ってくれた。お金の心配もいらないし、いつまでいてくれて良いと。
けれどミシェルは、このままではいけないと感じていた。
街を見渡せば皆、生きていくために仕事をしている。食事をするにも、花を愛でるにも、何をするにもお金は必要だ。
同年代の皆は、学問に励んだり、親元で花嫁修業をしながら暮らしている。
けれど、天蓋孤独のミシェルには、彼女たちに許されたモラトリアムというものは存在しない。自分が生きていくための道を見つける必要があるのだ。
「この街は……そうねぇ、良くも悪くもできあがっているものね」
パン屋の主人はそう言って首を傾げた。
大きすぎず小さすぎないと住人が評すこの街は、元居た住人だけで、その生活のすべてが完結しており、他が付け入るスキがない。
おまけに、どこも人手は足りていて、ミシェルが手を出せるような求人はないのだ。
「私にもできるお仕事ってなると、中々ハードルが高くて。この街だけじゃなくて、他の町の求人も確認してはいるんですが」
シュンと肩を落とすミシェルを慰めるように、トネールが擦り寄った。
「う~~ん、そうだねぇ。あっ、でもさ! ミシェルちゃんならクリス様のお嫁さん、って選択肢もあるんじゃない? 」
パン屋の主人は瞳を煌めかせると、ポンと手を叩いた。
その途端、トネールは毛を逆立たせながら不機嫌に喉を鳴らす。ミシェルはポカンと口を開けると、ゆっくりと首を傾げた。
「……へ?」
「侯爵家のお嫁さんに永久就職なんて、夢のような話じゃない! 」
うっとりと目を細める女主人は、普段の豪快さとは打って変わり、まるで乙女のような顔つきだ。ミシェルはほんのりと頬を紅く染めた。
街に出てしばらくして分かったことだが、クリスの父親はこの領地を治める貴族で、侯爵という身分にあるらしい。十数年前までは王都で国王の側近を務めていた程の由緒ある家柄らしく、街の人々から尊敬され、敬愛されている。
そんな由緒ある貴族の屋敷に突然引き取られたミシェルは当初、街の皆から身分の高い令嬢だと思われていた。
今ではそんな誤解は溶けたものの、クリスとミシェルのラブロマンスを望むものは、街の年配者に一定数いるらしい。パン屋の女主人も、そのうちの一人だった。
「ご存じの通り、私はクリスの家柄には釣り合いませんし、彼はただの幼馴染ですよ」
ミシェルはそう口にしつつ小さく首を傾げる。
それに、ミシェルは『別の誰か』ではなく、自分自身の力で生きていけるようになりたい。そうでなければ、森を出た意味がないからだ。
「わかってるけど! あなた達がうまくいくと、私たちは嬉しいんだけどねぇ。美男美女でとってもお似合いだし」
夢見る少女のように頬を染めたパン屋の主人を残し、ミシェルはそっと店を出た。
そんなやり取りがあった日の夜のこと。
夕食の後でミシェルは、クリスの父親であるアーサーに呼び止められた。
「実はね、ミシェルちゃん。ミシェルちゃんにピッタリの仕事の情報があるんだ」
「本当ですか⁉ 」
ミシェルは思わずアーサーの手を取ると、瞳を輝かせた。
「父上、ミシェルはようやく森から出てきたばかりなのに」
クリスはそう言って、咎めるような視線を父親へ向ける。トネールも同調するように、眉間に皺を寄せていた。
「もちろん私としては、ミシェルちゃんにずっとここにいてほしいよ? でも、ミシェルちゃんがとても熱心に仕事を探しているからね」
そう前置きしたうえで、アーサーは一枚紙片を懐から取り出した。
ミシェルとクリスはすぐに紙片を開き、内容に目を走らせる。
「応募条件……魔女であること、ですか? 」
「そう、こんなピッタリな求人中々ないからね」
「父上……この求人は! 」
クリスは困惑の表情を浮かべながら父親を見上げた。アーサーは穏やかに微笑みつつ、大きく息を吸う。
「この街からは離れることになるけど、3食・部屋付きの超好待遇求人だよ。それに、採用されるのは一人だけ。絶対に受かるって保証はないけど……どうだい? ミシェルちゃん」
「受けます! 受けてみたいです! 」
ミシェルは迷うことなくそう答えた。アーサーは満足げに頷きながら、ポンとクリスの肩を叩く。
「試験は七日後、場所は王都だ。クリス、ミシェルちゃんについて一緒に行くように」
「えぇ、もちろん」
クリスは眉間に皺を寄せながら、コクリと頷いた。
「ミャァ」
ミシェルの足元で、トネールが不安げに鳴く。
けれど当のミシェルは、ようやく自分にもできそうな仕事が見つかったことに胸を躍らせ、気づいていない。
「受かると良いですね、トネール」
無邪気に笑うミシェルを見つめながら、クリスとトネールがそっと、小さなため息を吐いたのだった。




