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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第六巻:多元人格アルファ
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終章 名前のある街で

 アガルタ市の雨は、すぐには止まなかった。


 アガルタ核の深部で黒刃ヌルが砕け、無記層への流れが弱まり、篠宮凪が境界に固定された後も、地上では細い雨が降り続いていた。


 それは、事件の余韻のようだった。


 街の輪郭は戻った。


 道路標識には、かろうじて「アガルタ」の文字が読めるようになった。商店街の看板も、市役所の庁舎名も、学院の正門プレートも、中央病院の案内板も、完全ではないにせよ、名前を取り戻し始めていた。


 だが、それは奇跡のような一括復旧ではなかった。


 空白は残った。


 文字が薄い名札もあった。


 何度呼んでも下の名前がすぐに戻らない人もいた。


 家族が覚えていても、本人の口から出てこない名前もあった。


 戸籍システムの氏名欄が復帰しても、手書きの古い書類の署名だけが白く抜けたままのものもあった。


 それでも、欠落は止まった。


 それが、最初の変化だった。


 止まったなら、呼び直せる。


 書き直せる。


 確認できる。


 間違えたら訂正できる。


 街は、そこから始めるしかなかった。


     *


 アガルタ学院では、出席確認の方法が変わった。


 朝の教室。


 窓の外には、まだ雨粒が残っている。


 教師は出席簿を開き、少し緊張した顔で教壇に立っていた。


 かつてなら、出席番号だけで済ませることもあった。


 番号順に呼ぶ。


 返事があれば丸をつける。


 それで授業は始まる。


 だが、その朝、教師はゆっくりと名簿を見た。


「二年B組、一番」


 そこで一度、言葉を切る。


 生徒たちが顔を上げる。


 教師は、深く息を吸った。


「相沢遥斗」


 呼ばれた男子生徒が、一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、少し照れたように手を上げる。


「はい」


 教師は、名簿に丸をつける。


「二番、井上美咲」


「はい」


「三番、河合――」


 そこだけ、少し詰まった。


 名簿の下の名前が薄い。


 教師は焦らなかった。


 机の上の補助記録を見た。


 前日に本人と家族、友人の確認を取った仮復旧名簿。


 そこにある字を、声に出す。


「河合紗奈」


 呼ばれた女子生徒は、目を潤ませながら返事をした。


「はい」


 教室の空気が少しだけ動いた。


 番号だけでも授業はできる。


 だが、名前で呼ぶことは、そこにいる生徒を世界へ戻す作業でもある。


 それを、教師も生徒も知ってしまった。


 窓際の席で、真昼はその光景を見ていた。


 自分の出席番号が呼ばれる前から、ノートを開いている。


 そこには、小さくこう書かれていた。


 **番号は便利。

 名前は面倒。

 でも、面倒な方を省略すると、人が薄くなる。**


 やがて、教師が呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は、顔を上げた。


「はい」


 返事をした瞬間、自分の胸元の名札の文字が少しだけ濃くなった気がした。


     *


 中央病院のロビーでも、呼び出しは変わった。


 大型モニターには、相変わらず番号が表示されている。


 病院で番号をなくすことはできない。


 患者の取り違えを防ぐため。


 順番を管理するため。


 混雑の中で手続きを滞らせないため。


 番号は必要だった。


 ただ、その番号の後に、音声が加わった。


『二十四番、河野美代子様。三番診察室へお入りください』


 ベンチに座っていた老女が、ゆっくり顔を上げた。


 隣にいた若い女性が、手を握る。


「おばあちゃん、呼ばれたよ」


「二十四番?」


「うん。でも、それだけじゃない」


 老女は、少し時間をかけて、自分の胸に手を当てた。


「河野美代子」


「そう」


「私」


「そうだよ」


 老女は小さく頷き、立ち上がった。


 診察券番号は必要だ。


 しかし、それは本人名の代わりではない。


 その当たり前のことを、病院は一つ一つ確認していた。


 受付の職員は疲れ切っていた。


 それでも、名前を呼び直した。


 患者も、家族も、看護師も、何度も聞き返した。


 間違えないために。


 取り戻すために。


     *


 アガルタ市警の記録保管室では、霧生仁が報告書を修正していた。


 正式な電子記録はすでに提出されている。


 だが、その横に、手書きの修正票が束になって置かれていた。


 事件番号。


 発生場所。


 関係機関。


 被害者名。


 被疑者名。


 異常事象の分類。


 観測局関連タグ。


 何度も修正が入ったため、紙は赤字と付箋だらけになっている。


 部下の刑事が、呆れたように言った。


「主任、これ、本当に正式保管に回すんですか」


「回す」


「手書き修正多すぎますよ」


「電子記録が消えかけたんだ。手書きも残す」


「字、汚いです」


「読めればいい」


「ギリギリです」


「ならお前が清書しろ」


「えっ」


「今、ギリギリって言ったろ。きれいに読めるようにするのも捜査協力だ」


 部下は、余計なことを言ったという顔をした。


 霧生は赤ペンを握り、最後の欄へ書き込む。


 **被疑者:篠宮凪**


 その下に。


 **O-00関連。

 アガルタ核境界層に固定。

 生死不明。

 記録凍結中。

 本人名確認済。**


 少し迷ってから、さらに一行加える。


 **名前のない相手は裁けない。

 よって、本人名を消さない。**


 部下が覗き込む。


「主任、それ、報告書に書く文ですか」


「文句があるなら上に言え」


「上がまた胃を痛めますよ」


「市民の名前が消えるよりましだ」


 霧生は、報告書を閉じた。


 その表紙には、事件名が手書きで修正されていた。


 **アガルタ市広域氏名欠落および無記層接続事案**


 長い。


 固い。


 事件の恐ろしさを、完全には表せていない。


 それでも、そこには名前が残る。


 篠宮凪も。


 被害者たちも。


 御影レイも。


 白瀬真昼も。


 番号だけではなく。


     *


 境界観測局では、藍沢環が新しい規定案を提出した。


 会議室は、まだ混乱の跡を残している。


 応用部門の席は空席が目立った。


 久我瀬玲央は、表向きには「深層災害対応失敗に伴う聴取中」とされている。彼は完全に考えを改めたわけではない。今も、緊急時の分類運用は不可欠だと主張している。


 それでも、彼の端末には、本人名欄が戻っていた。


 久我瀬玲央。


 その名前は薄くない。


 藍沢は、会議室の正面に立った。


 スクリーンには、新規定案の一文が大きく映っている。


 **識別番号は本人名の代替として使用してはならない。**


 局内の何人かが、眉をひそめた。


「運用上、困難では」


「症例管理に支障が出ます」


「本人名が不安定な場合、番号管理は不可欠です」


 藍沢は、静かに頷く。


「番号管理は不可欠です」


 反対していた職員たちが、少し意外そうに顔を上げた。


 藍沢は続ける。


「番号を廃止する提案ではありません。番号は、名前が戻るまでの仮杭です。事故記録、症例分類、危険度管理、関連タグ付け、捜索照合には必要です」


 彼女は一度、言葉を切った。


「ですが、番号は本人名の代替ではありません」


 会議室が静まる。


「A-00は御影レイさんの名前ではありません。O-00は篠宮凪の名前ではありません。K-117は真木彼方の名前ではありません。番号を主記録にした瞬間、私たちは保全ではなく削除に加担します」


 誰もすぐには反論しなかった。


 藍沢は、手元の資料を閉じる。


「この規定は、観測局にとって不便です」


 淡々と言った。


「ですが、人間を扱うために必要です」


 その一文は、議事録へ残された。


     *


 黒江透子は、地下の小さな保管室に花を置いた。


 正式な慰霊場所ではない。


 観測局の地下廃棄区画にあったK-117観測室は、もう立ち入りが制限されている。アガルタ市警の管理下で、再調査と封鎖が進んでいた。


 だから透子は、別の場所を選んだ。


 特異殺人対策室の一角。


 仮設の記録棚。


 そこに、真木彼方のファイルを置いた。


 表紙には、もうK-117とは書かれていない。


 **真木彼方**


 その下に、小さく。


 **旧分類:K-117**


 分類は消さない。


 でも、名前の下に置く。


 透子は、白い花を一本、ファイルの横に置いた。


 菊ではなかった。


 葬儀の花ではなく、駅前の花屋で買った、小さな白い花。


 名前を聞いたが、忘れないようにメモしてある。


 カスミソウ。


 透子は、ファイルの前に立ち、深く息を吸った。


「真木彼方」


 その名前を呼ぶ。


 部屋は静かだった。


 返事はない。


 生身として戻ったわけではない。


 もう、彼と会話することはできない。


 それでも、名前は呼べる。


「あなたは、K-117じゃない」


 透子は、ファイルに手を置いた。


「遅くなりました」


 涙は出なかった。


 涙を流す時は、すでに核の中で終わっている。


 今は記録を残す時間だった。


 彼女はペンを取り、正式記録の末尾に一文を加えた。


 **対象者本人名:真木彼方。

 呼称確認済。

 番号管理により本人名が覆われたことを、観測局側過失として追記。**


 それから、小さく呟いた。


「次は、間違えません」


     *


 旧地下鉄の入口では、倉科悠斗が点検を続けていた。


 鉄扉の前には、まだ立入禁止の黄色いテープが貼られている。


 観測局、市警、交通局の三者合同調査という面倒な扱いになり、現場の書類は山のように増えた。


 倉科は、書類の束を見てうんざりした顔をしている。


「これ、全部俺が確認するのかよ」


 隣で交通局の同僚が肩をすくめる。


「お前、現場案内人だったんだろ」


「好きでなったわけじゃない」


「でも、旧地下鉄で一番詳しいの、お前じゃん」


「そういう時だけ評価するな」


 倉科は膝をつき、水位計を確認する。


 黒い水は、もう上がっていない。


 完全に消えたわけではない。


 排水路の奥に、まだ黒い染みのようなものが残っている。


 だが、逆流は止まっていた。


 倉科はチョークで新しい線を引く。


 **現在水位 倉科悠斗確認**


 今度は、文字が滲まなかった。


 工具箱についた黄色い電車のキーホルダーが揺れる。


 そこへ、スマートフォンが震えた。


 姪からのメッセージだった。


 **ゆう兄、今日帰りおそい?**


 倉科は、少しだけ笑った。


 返信する。


 **今日はたぶん普通。

 あと、名前ちゃんと呼べよ。**


 すぐに返ってくる。


 **ゆう兄はゆう兄でしょ?**


 倉科は、鼻の奥が少しだけ痛くなった。


「そうだよ」


 誰にともなく言い、工具箱を閉じる。


「倉科悠斗。旧地下鉄保守課。地上側に帰るところ」


     *


 御影家の朝は、いつもより静かだった。


 雨はまだ残っている。


 ただ、窓を打つ音は弱い。


 街全体が長い熱を出した後のように、湿って、疲れて、それでも呼吸をしている。


 レイは、自分の部屋で眠っていた。


 眠れたのは、久しぶりだった。


 深く、長く、夢を見ない眠り。


 エミーの舞台も、古河千景の作業灯も、真木彼方の観測室も、篠宮凪の黒い傘も出てこなかった。


 ただ、眠った。


 朝になり、部屋のドアが静かに開く。


 佳乃が、いつものように声をかけた。


「レイ、朝よ」


 レイは、布団の中で目を開けた。


 反射的に答える。


「いる」


 佳乃は、一瞬だけ黙った。


 それから、少し笑った。


「そこは、おはようでいいの」


 レイは、天井を見た。


 自分の部屋の天井。


 壁に貼られた古いポスター。


 机の上の教科書。


 充電中の端末。


 窓辺に置かれた小さな植物。


 御影レイの部屋。


 A-00の収容室ではない。


 R-■■の研究室でもない。


 無名駅でも、アガルタ核でもない。


 レイは、少し遅れて笑った。


「おはよう」


 佳乃は、ドアのところでそれを聞いた。


 目元が少し赤い。


 だが、泣かない。


 泣くのは、たぶんもう少し後でもいい。


「おはよう、レイ」


 レイは起き上がる。


 体は重い。


 だが、名前は重くない。


 軽くもない。


 ただ、そこにある。


 階段を降りると、食卓に朝食が用意されていた。


 焼いたパン。


 目玉焼き。


 サラダ。


 温かいスープ。


 いつもの朝。


 ただし、食卓の端に、一枚の封筒が置かれている。


 御影遥真の手紙ではない。


 佳乃が書いたものだった。


 表には、短く。


 **レイへ**


 レイがそれを見ると、佳乃は少し照れたように言った。


「今日読むものじゃないわ」


「じゃあ、いつ」


「読みたくなった時」


「中身は?」


「あなたの小さい頃の話。あの人のことも、少し。私が覚えている分だけ」


 レイは、封筒へ手を伸ばした。


 だが、開けなかった。


「じゃあ、後で読みます」


「ええ」


 佳乃は、スープを置きながら言った。


「おかえり、レイ」


 レイは、封筒から顔を上げた。


 その言葉は、遅れて届いた帰還の合図だった。


 アガルタ核から戻った時にも、母は名前を呼んだ。


 でも、あの時はまだ、帰ってきた実感がなかった。


 今、朝食の匂いの中で、ようやく帰ってきたと思えた。


 レイは、小さく答える。


「ただいま」


     *


 放課後、旧新聞部室には、柔らかい光が入っていた。


 雨はほとんど止んでいる。


 窓ガラスには水滴が残っているが、空は少し明るい。


 机の上には、資料が広げられていた。


 商店街の聞き取り。


 学院の出席確認変更。


 病院の呼び出し運用。


 市役所の氏名復旧窓口。


 観測局の新規定案。


 市警の発表文。


 旧地下鉄の封鎖継続通知。


 そして、真昼のノート。


 何冊にも増えたノートの最後の一冊を、真昼は開いていた。


 端末画面には、《アガルタ観測録》の編集画面が表示されている。


 最終記事。


 タイトル欄に、真昼はこう打ち込んだ。


 **名前のある街で**


 指が止まる。


 事件の真相をすべて書くことはできない。


 アガルタ核も、無記層も、黒刃ヌルも、篠宮凪の固定状態も、真木彼方の記録層復帰も、そのまま公開できるものではない。


 書けば、誰かを危険に晒す。


 書けば、理解されずに消費される。


 書けば、名前を守るための記録が、名前を傷つける記事になる。


 だから、書かないことがある。


 でも、何も書かないわけではない。


 真昼は本文を書き始めた。


 学校で、番号の後に名前を呼ぶようになったこと。


 病院で、番号だけでなく患者名を確認するようになったこと。


 商店街で、店主が古い配達帳から自分の下の名前を見つけたこと。


 市役所に「氏名復旧相談窓口」ができたこと。


 名前を思い出せない人を責めないこと。


 仮の番号で支えること。


 けれど、番号を名前の代わりにしないこと。


 記事は、説明ではなく、観測だった。


 真昼は、最後の段落で手を止めた。


 窓の外を見る。


 校庭の水たまりに、空が映っている。


 もう黒い傘は映らない。


 白い紙に、彼女はゆっくりと打ち込んだ。


 **誰かの名前を呼ぶ時、私たちはその人を世界へつなぎ留めている。

 でも、呼び方を間違えれば、その名前は鎖にもなる。

 だから私は、書く。

 呼べる名前を呼ぶために。

 まだ呼べない名前を、呼べる日まで守るために。**


 書き終えて、真昼は息を吐いた。


 公開ボタンには、まだ触れない。


 もう一度読み返す。


 誤字を直す。


 言い過ぎた部分を削る。


 誰かの実名が不要に出ていないか確認する。


 公開していい記録と、非公開にすべき記録を分ける。


 天沢灯里の名前は、非公開記録に残した。


 真木彼方の名前も、公開記事には出さない。


 篠宮凪の名も、記事には書かない。


 でも、消さない。


 真昼のノートには、残っている。


 その時、部室の扉がノックされた。


「どうぞ」


 扉が開く。


 レイが入ってきた。


 制服姿。


 少し眠そうで、少し疲れていて、それでも目は前より落ち着いている。


 真昼は、椅子の背にもたれた。


「遅いです」


「寄り道してました」


「どこへ」


「中央通りの標識を見に」


「アガルタ、戻ってました?」


「薄いけど、読めました」


「よかった」


 レイは、机の上の端末を見た。


「記事ですか」


「はい。最終記事です」


「最終?」


「この事件については」


「《アガルタ観測録》をやめるのかと思いました」


「やめません。まだ書くことはあります」


「よかった」


 真昼は、少し笑った。


「御影くんは、やめてほしかった?」


「いえ。白瀬が書かないと、不安になります」


「責任重大ですね」


「かなり」


 レイは、窓辺へ歩いた。


 校庭の水たまりを見下ろす。


 雨は、ほとんど止んでいる。


 窓の外に映る自分の顔は、一つだった。


 エミーでもない。


 古河千景でもない。


 倉科悠斗でもない。


 真木彼方でもない。


 篠宮凪でもない。


 御影遥真でもない。


 御影レイ。


 ただ、それだけ。


 真昼は、椅子から立ち上がり、隣へ来た。


「今なら、言える?」


 レイは、少し考えた。


 それから答える。


「御影レイ」


 真昼は笑った。


「それは知ってる」


「ですよね」


「他には?」


 レイは、窓の外を見たまま、ゆっくり息を吸う。


 名前を呼ぶ。


 自分の中に取り込むためではない。


 外側に立たせるために。


「エミー・グレイス・ハーパー」


 赤いステージの光が、遠くで静かに灯る。


「古河千景」


 作業灯の白い輪が浮かぶ。


「倉科悠斗」


 工具箱の音と、少し乱暴な声が思い出される。


「真木彼方」


 白い光の中で微笑んだ少年。


「篠宮凪」


 黒い傘を閉じたまま、境界に固定された青年。


「御影遥真」


 雨の研究室に残された手紙。


 レイは、そこで一度言葉を切った。


 胸は痛む。


 でも、崩れない。


 彼らの名前は、レイの中にある。


 けれど、レイではない。


 レイは続ける。


「みんな、僕だったかもしれない。でも、僕じゃない」


 真昼は、静かに頷いた。


「はい」


 レイは、窓ガラスに映った自分を見る。


 その横に、真昼の姿が映っている。


 白瀬真昼。


 彼女は、彼の同魂者ではない。


 彼の別の人生ではない。


 だからこそ、彼を呼べる。


 外側から。


 御影レイとして。


 レイは、最後に言った。


「僕は、御影レイだ」


 その声は、強くはなかった。


 叫びでも、宣言でもない。


 でも、はっきりしていた。


 旧新聞部室の空気に、静かに残る声だった。


 真昼は、端末の公開ボタンを見た。


「押します」


「はい」


「いいですか」


「僕に許可を取る記事じゃないです」


「一応、聞きました」


「なら、いいです」


 真昼は頷き、公開ボタンを押した。


 《アガルタ観測録》に、新しい記事が載る。


 **名前のある街で**


 送信完了の表示が出る。


 その瞬間、窓の外で、雨が止んだ。


 雲の切れ間から、細い光が落ちる。


 校庭の水たまりが、ゆっくり揺れる。


 そこには、もう別の人生は映っていなかった。


 黒い傘も。


 白い観測室も。


 赤いステージも。


 無名駅のホームも。


 R-■■の研究室も。


 何も映っていない。


 ただ、旧新聞部室の窓辺にいる二人が映っている。


 白瀬真昼。


 御影レイ。


 水たまりの中の二つの影は、混ざらなかった。


 並んで、そこにあった。


 真昼が言う。


「御影レイ」


 レイが返す。


「白瀬真昼」


 雨上がりのアガルタ市に、その二つの名前が静かに残った。

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