第5話
―――市川大樹海
配信も、実況コメントも、応援の声もない。あるのはただ風切り音と、己の心拍だけ。
ニューカラーズの三人が賑やかに攻略していた神谷鉱石洞から遥か離れた、千葉・市川エリア第3層。
単独での立ち入りにすら許可が必要な深度であり、明菜が事務手続きをわざわざ済ませていたのも、それが「誰でも」通れる階層ではないことの証だった。
黒島凪のことは、所属先である明菜の事務所でも、彼の階層到達記録や依頼の内訳を詳しく知る者は少ない。
反重力リアクターの唸りが弱まり、落下速度が緩やかに減衰していく。凪は空中で体を捻り、着地の衝撃もなく地面に降り立った。
ふと周りを見渡すと、鬱蒼と生い茂る樹木の群れ。太い幹が幾重にも折り重なり、葉の隙間からはこのエリア特有の特殊な粘菌が
自発光しており地底内とは言えない不思議な雰囲気を醸し出している。
「……何度潜っても、ここの光景には慣れないな」
独り言が、静かな森の空気に溶けていく。地底なのに、樹海。
地上を追われた人類にとって、これほど皮肉な光景もないだろう。かつて失われた緑を、彼らは今、地の底で目にしている。
腰元に提げた球体状のAI搭載の超小型ユニット――アンダーグラウンドノーツ支援機SHIKIが、淡い光を灯す。
『――現在地、市川エリア第3層。前回到達時からの座標のズレ、確認できません』
「ああ。問題は座標じゃない。ここから先だ」
凪は腕部のディスプレイに、事務所から支給された立体地図を展開した。
本来ならこの先に、緩やかな獣道のような通路が続いているはずだった。
神宮寺からの依頼書に添えられていた過去の踏破記録にも、そう記されていた。
だが、目の前に広がっているのは――
「道が、丸ごと塞がってる」
巨大な根が絡み合い、まるで意志を持つかのように通路を完全に覆い尽くしていた。人為的な崩落とは明らかに違う。植物そのものが、まるで“何か”を守るように増殖している。
「神宮寺会長からの依頼、市川大樹海の階層構造の変化。これは既に確認できたし何かしら変化が起きていることは確定...問題は、その変化が何につながっているか...」
事務所を出る前、明菜が読み上げていた依頼内容が脳裏をよぎる。単なる階層構造の変化調査。表向きはそうだった。
だが、それならば俺じゃなくてもいいはず。
わざわざ神宮寺会長から依頼が来たのは相当厄介な事情が眠っている。そう感じ取った凪は
警戒度を1段階引き上げる。
ふと、凪は大樹の根の壁に手をかざすと、その質感を確かめる。まるで生きているかのように、微かな脈動が指先に伝わってきた。
「SHIKI、これは自然な生育か?」
『――否定します。植生の成長速度があきらかな異常値を計測。加えて、この根の内部からは微弱ながら、アンノウンに酷似した反応を検出しています』
その言葉に、凪の目つきがわずかに鋭くなる。
これまで数えきれないほどの階層を渡り歩いてきた。
だが今回のケースは今までに聞いたことがなかった。
「植物種のアンノウン...? 聞いたことはないけど、反応があるのはこの1本だけ?」
「否定します。同様の反応が複数よりみられます、その反応は
ある一点に向かって継続的に流れ込んでいます。大樹そのものが、エネルギーを収束させるための“導線”として機能している可能性が高いです」
「導線、要は栄養を運んでいるのか」
「その収束点、どこにある?」
その問いにSHIKIが経路を示すことで回答する
示した先の根の隙間――辛うじて人ひとり通れるだけの裂け目に、凪は身体を滑り込ませた。
森の奥は、想像以上に静かだった。
風もなく、虫の音すらしない。ただ、頭上の粘菌だけが則的に明滅を繰り返している。
まるで、この森全体がひとつの生き物であるかのように。
SHIKIの示す経路に従い、根の這う方向をなぞるようにしばらく進むと、木々の隙間から、開けた空間が見えてきた。
大きな窪地の中心に、一本だけ異質な木が立っていた。他の木々とは違い、幹全体がどす黒く変色し、樹皮の代わりに――鱗のような硬質な表皮に覆われている。無数の根が、まるで血管のようにその大樹から地面へと張り巡らされ、森全体へと繋がっていた。
「……ここが収束点、か それにしてもここまで1体もアンノウンと遭遇してない
第1階層ならまだしも第3階層でありえるのか...?
その凪の違和感はすぐに解消されることになる
『生体反応、検出。……警告。既知のアンノウン個体とサイズ・出力全てに一致しません』
「...ああ、俺も検出した あいつだろ一番奥の」
窪地の奥、影の中心に蹲っていた一体が、ゆっくりとその巨体を持ち上げた。
四足で立てば軽く5メートルを超えるであろう、熊を思わせる巨躯。だが、それはもはや自然の獣などではなかった。全身を覆う漆黒の体毛の隙間から、まるで血管のように赤黒い光の筋が幾重にも走り、脈打っている。前足の先には、木の幹をも容易く引き裂くであろう漆黒の鉤爪が伸びていた。
その単眼が、ゆっくりと持ち上がり――森の奥に立つ凪を、確かに捉えた。
「...なるほど、これは俺向きだわ」
呟くと同時に、凪は静かに得物を構えた。表情に焦りはない。だがその瞳の奥には、これまでの階層で見せたことのない、微かな緊張が宿っている。
これまで、大抵のことには動じてこなかった男の胸の内に、初めて「未知」という言葉の重みが、じわりと広がった瞬間だった。
熊型の異形が、後ろ足だけで立ち上がる。その巨躯が影を落とすと同時に、周囲を震わすほどの咆哮
ビリビリと空気を振動させるそれは明確な敵意を凪に向けていた
凪は腰の《SHIKI》に軽く触れると、静かに口の端を上げた。
「やっぱ、持ってきて正解だったな」




