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第4話 それ、俺の肉なんですけど

 日曜日、直樹は待ち合わせのスーパーで玲奈さんに会うと、愛想よく笑った。


「結構食べるって聞きましたよ」

「はい。お肉は特に好きなんです」

「俺もです。今日は遠慮なしでいきましょう」


 肉売り場では、二人の話が弾んだ。

 直樹が勧めた肉を、玲奈さんも好きだと言う。脂の甘さや焼き加減の話をしながら、夫は次々とパックをかごに入れた。


「遥、これもいい?」


 見せてきたのは、ほかの肉より値段の高いパックだった。

 特にきれいな二切れを見て、直樹が笑う。


「せっかくだし、これも焼きたいな」

「うん」

「これは失敗できないなあ」


 真紀と花が野菜売り場へ向かい、玲奈さんもそのあとを追った。二人になったとき、直樹が私に顔を寄せた。


「気が合うな、あの人。今日、楽しみだわ」

「……うん」

「何? 肉、買いすぎた?」

「ううん。大丈夫」


 肉の重みで、かごの持ち手が腕に食い込んだ。

 楽しみだと言われるのは、思っていたよりつらかった。

 やめようか。今なら、ただのバーベキューにできる。


 そのとき、売り場の先から花の声が聞こえた。


「おにぎりもあるんだよね?」


 娘も、今日の食事を楽しみにしている。

 家でハンバーグを食べる日も、唐揚げを揚げた日も、こうして楽しみにしていたはずだった。

 私はかごを持ち直した。


     *


 バーベキュー場では、直樹が張り切って肉を焼いた。

 脂が落ちるたびに煙が上がり、花が鼻をひくひくさせる。


「この辺、もう食べられるよ」

「じゃあ、花ちゃんの分、先にもらうね」


 真紀が皿に肉と野菜を載せ、おにぎりを添えた。


「ママのは?」


 受け取るより先に、花が尋ねた。


「ここにあるよ。ママにも、ちゃんと取ってあるからね」

「よかった。いただきます!」


 真紀と目が合った。

 私は小さく頭を下げ、娘にゆっくり食べるよう声をかけた。


「みんなも、どんどん食べて」


 直樹は一切れを口に入れ、うんとうなずいた。

 玲奈さんも食べ始める。


「おいしい!」

「でしょう? これ、選んで正解でしたね」


 最初のうち、直樹は彼女の食べっぷりを喜んでいた。

 空になった皿を見るたび、もう食べたんですか、と笑って新しい肉を並べた。


 変わり始めたのは、三度目に網が空いた頃だった。

 直樹の取り箸が焼けた肉へ向かう。そのすぐ先で、玲奈さんのトングが肉を持ち上げた。


「あ、それ……」

「これも、いただきますね」

「ああ、どうぞ。次、焼きますから」


 直樹は笑っていた。ただ、次のパックを開ける指に力が入っていた。


 私は花の飲み物を足しながら、網の前を見ていた。

 直樹はいつも、作った人間の箸が止まっていても気にしなかった。自分が焼く側に回った今日は、何度も自分の皿を確かめている。


「ちょっと、お茶取ってきます」


 直樹が網を離れた。

 戻ってきたとき、焼けていた肉はすべて玲奈さんの皿に移っていた。


「あれ? もう全部取っちゃったんですか」

「焼けてたので。冷めないうちにと思って」

「……俺も食べようと思ってたんですけど」

「あ、そうだったんですか」


 直樹が網を見る。

 その顔を見たとき、空の大皿の前で立っていた自分を思い出した。

 あのとき私も、そんな顔をしていただろうか。


「まあ、まだありますからね」


 直樹は声を明るくした。

 真紀が、私に取り分けておいた皿を渡してくれた。


「遥も座って食べよう」

「ママ、隣!」


 花が椅子をぽんぽんとたたく。

 腰を下ろし、肉を一口食べた。まだ温かかった。噛むと脂の甘さが広がって、思わず息をついた。


「このお肉、おいしいよね」

「うん。おいしいね」


 花はおにぎりに手を伸ばした。肉がまだ残っているのに、別のものを選べている。

 私は、娘が咀嚼する頬を見ていた。


「じゃあ、いよいよこれ、焼きますか」


 直樹の声に顔を上げた。

 手にしているのは、あの高い肉だった。網の上に二切れを並べ、ほかの肉より慎重に返す。


「これは俺も食べますからね」


 冗談めかしていたが、直樹の目は肉から離れなかった。

 焼けた一切れを玲奈さんが取る。直樹は残った一切れをすぐ自分の皿へ移した。


「やっと食べられる」


 ほっとした顔だった。

 その皿へ、玲奈さんのトングが伸びた。


「これも、もらいますね」

「あ、ちょっと! それ、俺の……」


 声が終わる前に、肉は彼女の口へ入った。


「あ……すみません。一切れくらい、いいかと思って」

「よくないですよ」


 直樹の声が、はっきり低くなった。

 玲奈さんはトングを下ろした。


「さっきから、俺が食べようとしたら全部取るじゃないですか。今のなんか、俺の皿にあったんですよ?」

「……はい」

「人の分まで取るの、ちょっとおかしくないですか?」


 花の手が止まった。

 真紀がすぐに娘の肩へ手を添えた。


「花ちゃん、お茶取りに行こうか」

「……うん」


 二人が離れていく。

 玲奈さんは、すみませんでしたと頭を下げた。それ以上、何も取らなかった。


 直樹は椅子に座った。膝に置いた皿は、たれで汚れているだけだった。

 私は隣に立った。


「直樹。焼きそば、まだあるよ」

「……俺、あの肉が食べたかったんだけど」

「うん」


 分かるよ、と言いたかった。

 おなかに何か入れば、それで済むわけではない。楽しみにしていた味があって、自分が食べるはずの一口があった。

 でも、今それを言えば、責めるために近づいたようになる。

 私は焼きそばをよそい、夫の前に置いた。


 少し離れた場所にいる玲奈さんと目が合った。

 彼女はもう笑っていなかった。私も、成功したとは思えなかった。

 ここから、夫と話をしなければいけない。


     *


 帰りの車で、花は眠っていた。

 直樹は前を向いたまま、ほとんど話さなかった。


「今日のことなんだけど――」

「今、運転してるから」


 私は口を閉じた。

 窓の外を、店の看板や夕方の歩道が流れていく。膝に置いた手を開いて、また握った。


 夜、花を寝かせてから洗い物をしていると、直樹が戸棚を開けた。


「なあ、何かない?」

「おなか空いた?」

「ああ。俺、ろくに食ってないんだけど」


 私は水を止めた。

 直樹は戸棚を閉じ、私を見た。


「見てただろ。最後なんか、俺の皿からだぞ」


 今度こそ、途中で話を終わらせたくなかった。

 濡れた手を拭き、夫の方へ体を向けた。

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