第3話 私だって、食べたいよ
「遥、今日、急いでる?」
久しぶりに会った真紀にそう聞かれて、私は箸を止めた。
平日の昼。二人の前には、同じ定食が並んでいる。真紀の皿にはまだ料理がたっぷりあるのに、私の皿は半分近く空いていた。
「このあと、何か用事があるのかと思って」
「ううん。ないよ」
口の中に残っていたものを飲み込む。
おいしいかどうかも、ろくに考えずに食べていた。
「……癖になっちゃったのかな」
「癖?」
「家だと、早く食べないとなくなるから」
言葉にして初めて、そんなことを当たり前にしている自分に驚いた。
真紀は笑わなかった。
「直樹さん?」
うなずいた途端、昨夜まで頭の中で繰り返していた話が、順番を失って出てきた。
私が花の世話をしている間に、おかずがなくなること。皿を分けても取ること。花がまだ食べると言ったのに、飲み込んでしまったこと。
「それは嫌だよ。花ちゃんだって怒るでしょう」
「うん。でも、ごめんごめんって。それで終わりなの」
真紀が箸を置いたので、私も置いた。
話している間に取られることはない。ここでは、急ぐ必要がない。
「この前、花が私におかずをくれようとしてね。ママも好きでしょって」
「うん」
「戻したんだけど……何で、あの子がそんなこと気にしなきゃいけないんだろう」
声がつかえた。
泣くつもりで来たわけではなかった。大した話じゃないんだけど、と最初に断るつもりでさえいた。
「お義母さんにも相談したの。でも、家族がおなかいっぱいなら、妻はそれでいいんだって」
真紀は私の皿を見てから、顔を上げた。
「遥は、おなか空いてるのにね」
その一言に、うまく返事ができなかった。
量を増やせば。先に取り分ければ。気にしなければ。
今まで、どうすれば私が困らなくなるかという話ばかりしていた。私が空腹だということを、ただそのまま受け取ってくれた人はいなかった。
「……そうだよ。私だって、食べたいよ」
目の前がぼやけた。
「自分で作ったんだもん。おいしいって言われたら、私も食べたい」
真紀が紙ナプキンを寄せてくれた。
涙を拭く間も、私の定食は私の前にあった。
「直樹さん、自分が取られても、同じこと言えるのかな」
「無理。絶対怒るよ」
「一度、誰かに取られてみたらいいのにね」
真紀の声には、友達の夫に対する遠慮より、腹立たしさがにじんでいた。
私は、その言葉を聞き流せなかった。
「……そしたら、分かるかな」
真紀がこちらを見る。
「自分が嫌だったら、もうやめてくれるかな」
私が先に直樹の分を食べれば、けんかになるだけだと思った。今だって、私の話には最後まで耳を貸さない。
でも、ほかの誰かに同じことをされたら。
真紀は少し迷ってから、スマートフォンの写真を見せた。
食べ放題の店で笑う女性の隣に、空の皿が積まれている。
「友達に、すごく食べる子がいるんだけど。玲奈っていうの」
「これ、一人で?」
「うん」
私は写真を見つめた。
誰かに夫の食事を邪魔してもらう。そんな頼み事をしようとしている自分に、ためらいはあった。
それでも、花の皿を抱える手が頭から離れなかった。
「この人に、会えるかな」
「まずは三人でご飯でも食べよう。頼むかどうかは、会ってからでいいし」
*
玲奈さんは、メニューを開くなり目を輝かせた。
「これ、おいしそう。大盛りにしようかな」
「それでも足りなかったりして」
「その時は、もう一つ頼む」
真紀と笑い合う姿につられて、私も少し笑った。
定食が届いてから、花の話をした。最後の一口のハンバーグ、と聞いた玲奈さんが、眉を下げた。
「私も好きなもの、最後に取っておくんです。その味で終わりたいから」
「花も、そうなのかな」
「楽しみにしてたでしょうね」
私は、娘に半分渡したハンバーグを思い出した。
花が食べたかったのは、ただ同じ味の肉ではなかったのかもしれない。自分でここまで残して、最後に食べようと決めていた、あの一口だったのかもしれない。
玲奈さんは私たちより先に食べ終えた。空の皿を見て、私はいつものように尋ねた。
「足りた?」
「もう少し、いけそうです」
「これ、食べる?」
自分の皿を差し出すと、彼女は不思議そうな顔をした。
「遥さんは、もうおなかいっぱいですか?」
「ううん。まだ食べられるけど」
「じゃあ、食べてくださいよ。私、追加で頼めばいいんですから」
玲奈さんは店員を呼び、もう一品注文した。
私の皿には、指一本触れなかった。
この人は、直樹よりずっと食べる。
それなのに、隣にいても焦らない。
「遥、冷めちゃうよ」
真紀に言われ、私は皿を引き戻した。
まだ食べたいと答えた自分が、ひどくわがままに思えた。その感覚まで、少しずつ直さなくてはいけない気がした。
食後、バーベキューの話を切り出した。
真紀の説明を聞いた玲奈さんは、すぐにはうなずかなかった。
「ご主人が食べようとしてるお肉を、わざと取るってこと?」
「うん」
「それは、怒るんじゃないですか」
「たぶん、怒ると思う」
「帰ってから、遥さんが怒られません?」
私は膝の上で手を握った。
「そうかもしれない。でも、嫌だって言っても、気にしすぎだって。花が嫌がっても、冗談だって笑うの」
話し合いをした夜の、テレビの音を思い出す。
「自分も嫌だったら、少しは聞いてくれるかなって」
「遥。やっぱりやめようと思ったら、やめていいんだよ」
真紀を見て、うなずいた。
それから、玲奈さんに向き直った。
「でも、一度だけやってみたい」
彼女は少し黙っていた。
「分かってくれたら、また一緒にご飯を食べたいんですか?」
「うん。花と三人で、普通に食べたい。それだけなんだけどね」
言ってみると、あまりにも小さな願いだった。
けれど、自分一人では、それすらかなえられずにいた。
「分かりました。でも、本気で嫌がったら、そこでやめますね」
「うん。ありがとう。こんなこと頼んで、ごめんね」
花と私の分は、真紀が先に取り分けておくことになった。玲奈さんは、自分が多く食べる分のお金を払うと言った。おにぎりも、焼きそばも用意する。
誰かを空腹のまま帰す必要はない。
食べたいと思っていたものが、目の前からなくなる。その気持ちだけ、知ってほしかった。
その夜、誘いを聞いた直樹は機嫌よく笑った。
「いいじゃん。パパがお肉焼くぞ」
「やったあ!」
花が夫に駆け寄った。
二人を見ながら、胸の奥がためらいで重くなった。
このまま当日も、楽しく過ごせるならいいのに。
そのために何度も話をして、何度も諦めてきたことを、私はもう一度思い出した。





