後編
オーガストの隣で、ナーシャが小刻みに震えだす。
視線が集まったのを感じたのか、彼女は大袈裟に腹を押さえ、涙声を作った。
「ひ、ひどい……!殿下を追い詰めるなんて……っ。わ、私は……殿下のお子を——」
「……あら」
テレサは扇を口元に当て、微笑んだ。
「まだ続けるのですね、その芝居」
「し、芝居ですって……!?」
「ええ。あなたが口にした『お子』の話。私、先ほど医術院から届いたものを持っておりますの」
テレサが手を伸ばすと、侍女が封蝋付きの書状を差し出した。
赤い蝋には、王城医術院の印。
「どうして……そんな……!」
ナーシャの顔から血の気が引いた。
テレサは封を切り、書面を一瞥すると、淡々と読み上げた。
「ナーシャ・リンド伯爵令嬢——」
「……っ!?男爵令嬢、です!」
「ふふ。そこもですわ。あなた、男爵家のご令嬢ではありませんのね。戸籍が存在しない。偽名、偽装の身分。医術院の検査結果も明確です。懐妊の兆候なし」
会場に、押し殺した笑いが波紋のように広がる。
「ち、違う!そんな紙……偽物よ!殿下ぁ……!」
縋りつこうとしたナーシャの手を、オーガストが反射的に振り払った。
自分でも驚いたように目を見開き、次いで——崩れ落ちる。
「……俺は……」
「殿下」
ジークフリートが一歩、前へ出る。
「我が帝国の記録官は、今夜の発言もすべて記録した。貴殿が口にした公爵家など黙らせればいいという言葉は、外交上の侮辱として十分だ」
「そ、そんな……!」
「安心しろ。貴殿から何かを奪う必要はない。貴殿は、すでに自分で捨てた。信頼も、後ろ盾も、国益も」
ジークフリートはテレサの肩を抱き、振り返りもせず告げる。
「ベルンシュタイン公爵家は帝国が保護する。明日より、条約に基づき亡命手続きを開始する」
テレサは最後に一度だけ、オーガストを見た。
そこに怒りはない。憐れみもない。あるのは、最初から最後まで一貫した蔑みだけ。
「さようなら、殿下。……いえ」
扇を閉じる音が、夜会に静かに響く。
「殿下とお呼びする価値も、今しがた失われましたわね」
「オーガスト殿下。貴殿が彼女を捨てるという言葉、確かにこの耳で、そして我が帝国の記録官の魔道具で記録させてもらった。これをもって、ベルンシュタイン公爵家と我が帝国の『亡命および婚約守護条約』が発動する」
テレサは、数ヶ月前からオーガストの浮気の証拠を掴み、密かに隣国と交渉を進めていたのだ。
「な、亡命だと!?ベルンシュタイン公爵家がいなくなれば、この国の国境警備はどうなる!」
「知ったことではありませんわ。ゴミの警備など不要でしょう?」
テレサは冷ややかに笑う。
「私が管理していた魔力結晶の供給、並びに軍の補給路。これらはすべて、本日をもって停止します。あ、そうそう。あなたがナーシャ様に買い与えていた宝石の代金、すべて私の個人口座からの立て替えでしたわね。明朝までに一括で返済をお願いしますわ。……ゴミに施す慈悲は、もう使い果たしましたの」
「そんな……!?払えるわけがないだろう!」
「では、牢獄でゆっくりと愛を育んでくださいませ」
ジークフリートがテレサの腰を引き寄せ、守るように抱いた。
「さあ、行こうかテレサ。君をゴミ溜めに置いておくのは、私の心臓に悪い」
「ええ、喜んで。ジーク様」
そのままテレサはジークフリートの腕を取り、会場を後にした。
残されたのは、記録魔道具の冷たい光と、王太子という肩書きだけが剥がれ落ちた男の、呆然とした顔だった。
二人が悠然と会場を後にする背後で、オーガストの絶叫と、事態の深刻さに気づき泣き崩れるナーシャの声が響き渡った。
一ヶ月後。
隣国ガルディア帝国の皇宮で、テレサは穏やかな朝を迎えていた。
前の国は、ベルンシュタイン公爵家という柱を失ったことで経済が停滞し、さらに隣国からの『不当な婚約破棄による慰謝料』の請求に悲鳴を上げているという。
オーガストは王位継承権を剥奪され、ナーシャと共に辺境の開墾地へ送られたそうだ。
「テレサ、おいで。今日のドレスは君の瞳と同じ色を用意させたよ」
ジークフリートが優しく微笑み、彼女を抱きしめる。
テレサは彼の胸に顔を埋め、かつてのゴミ捨て場のような日々を思い出した。
ふふ。ゴミを捨てたら、こんなに綺麗な宝物が手に入るなんて。
彼女は幸せそうに、最愛の婚約者へと微笑み返した。
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