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第14話 白銀の魔女と失われた未来

 病院での返却が終わり、張り詰めていた空気がようやくほどけた頃。


 その日は珍しく、ギルドの会議も訓練もなかった。

 セリナは小さな手提げ袋を持ち、ヴェラと並んで王都の裏通りを歩いていた。


 目的は備品の買い出し。

 紙や羊皮紙、インク、蝋封、薬草の乾燥葉――どれもギルドの活動に欠かせないものばかりだ。


 露店の軒は低く、布の天幕が朝の光を柔らかく遮る。香辛料の匂いと焼きパンの香りが風に運ばれ、遠くでは鍛冶の槌音が一定のリズムで響いている。石畳は昨夜の霧をまだ少し抱え、靴底が触れるたびに、しっとりとした音を返した。


「ヴェラ、こんな買い物まで副団長が自ら?」


 問いかけると、白銀の髪を後ろでひとつに束ねたヴェラは、碧眼を細めて微笑んだ。彼女の白は陽光を吸って淡く青みを帯び、首筋に落ちる影まで凛としている。


「肩書きが何であろうと、ギルドは家族のようなものよ。家族に必要なものは、誰かが責任を持って揃える。それだけのこと」


 その声は冷ややかなのに、不思議とあたたかさを含んでいた。言葉の端に滲む配慮が、鋼のような気配の内側に、確かに人の温度を残している。


 黒のローブを纏った彼女は、露店の喧騒にあっても異質だった。まるで尖塔から抜け出した氷の魔女。


 行き交う人々は気づくと目を逸らし、距離を置く。幼子の手を引く母親はそっと進路を変え、果物商は声を張り上げた直後、喉奥でそれを飲み込む。誰もが理由を語れないまま、直感だけで彼女の周囲に結界を張る。ただの髪の色や瞳の冷たさが、言葉にならない隔たりを生むのだ。


 セリナは慣れていたが、それでも少し胸が痛む。けれどヴェラは気にも留めていないように歩いていた。

 歩幅は乱れず、風に揺れるローブの裾も恐れを映さない。黒い布地の下で、彼女はいつも通りの姿勢で世界を受け止めている。


「ねえ、ヴェラ」


「なに?」


 返事を受けたものの、セリナはすぐには言葉を続けなかった。喉の奥に上がってきた問いは、まだ形を持てない。

 代わりに、ふと遠くへ視線を彷徨わせる。言葉より先に、心が先に、ある一点へ引かれていく。


 市壁の向こう、天を突くように漆黒の尖塔――王都を睥睨する魔道院本院の塔が、荘厳にして冷酷な影を落としていた。

 塔の影は時計の針のように市中を横切り、屋根と屋根の間で鋭角を作る。石の肌は陽を吸わず、塗り込めた夜だけを返す。

 見上げるだけで、胸の奥の空気が冷える。


 隣を歩くヴェラが、その視線の先に気づいた。薄い唇が引き結ばれ、碧眼の奥に深い翳りが宿る。

 気づいた、というより、あの塔が視界に入る角度を身体が覚えているのだ、とセリナは思う。

 彼女の歩みが半歩だけ短くなり、ローブの布音がひときわ小さく鳴った。


「……」


 セリナは迷ったが、問いを飲み込むことはできなかった。

 足を止め、ヴェラの方へ向き直る。喧騒の層が薄くなる場所を選んで、言葉の居場所を作る。


「どうして……あなたはギルドに入ったの?」


 一拍の沈黙。風にローブがはためき、薬草の香りが揺らぐ。屋台の隙間を縫って流れる風は、どこか聖堂の廊のような冷たさを帯びていた。


「……王妃の命令で、私は禁呪を扱わされた」


 その声は低く、ひび割れた氷のように震えていた。抑えようとするほど記憶は輪郭を増し、押し返そうとするほど音が鮮明になる。


「あれは因果を捻じ曲げる呪。未来から“病なき因果”を無理やり引き寄せる。制御などできるはずがないのに」


 ヴェラは視線を尖塔に戻した。記憶を呼び起こすたび、瞳の奥が痛みに染まっていく。塔はただそこにあるだけで、あの日の冷気を吸い寄せる。


「王妃は言ったわ。『国を救うため』だと。覚えているでしょう、セリナ。数年前にグラナット市で疫病が流行って、市全体が封鎖されたことを。花の市と呼ばれたあの街が、一夜にして死と沈黙の色に覆われた。王都にも少しずつその影が忍び寄り、葬列の途切れぬ日が続いた。王妃は焦っていたの。もしこのまま広がれば、アルセリア王国は壊滅的な打撃を受ける、と。だからこそ、未来から“病なき因果”を引き寄せる禁呪にすがったのよ」


「……そういえば、あの時は大変だったわ」


 セリナの胸裏にも当時の光景が蘇った。まだ王太子妃教育を始めて間もない頃。朝の礼法、午後の歴史、夜の文芸。

 時刻表のように並ぶ日々の中で、窓の外から絶えず響く鐘の音だけが、予定を乱した。


 疫病で倒れた人々を運ぶ葬列が、日ごとに王都の大通りを黒く埋め尽くしていった。道の端には薬草を束ねた小さな供えが増え、香の煙が石畳の目地に沿って漂う。靴音はいつもより静かで、囁き声はいつもより多かった。


 けれど教官は淡々と告げた。

 ――「王太子妃は決して顔を曇らせてはなりません。鏡の前で、もう一度その笑みを」。


 鏡は正確だった。口角の角度、顎の位置、瞳の焦点。鏡はセリナの努力を映したが、窓の外を覆う喪の黒も、石畳にこぼれる嗚咽の響きも映さなかった。


 笑みの形は覚えられる。けれど、心の筋肉はちっとも鍛えられなかった。


 本当は怖かった。

 自分も家族も、明日には病に倒れるかもしれないのに。けれど「未来の王妃」としての仮面を被せられた少女には、涙ひとつこぼすことすら許されなかった。涙の重さを知るには、あまりに早かった。


 無力だった。

 ただ教え込まれた微笑みを浮かべるしかなく、それがかえって胸を締めつけた。胸骨の内側に薄い板が差し込まれ、呼吸が浅くなるような日々。祈り方だけを教わって、祈る相手を教わらないままの孤独。


 ヴェラの瞳が細く震えた。言葉が、過去の光景の輪郭をなぞる。


「未来から健康な因果を奪えば、その未来は削り取られる。本来なら存在していたはずの希望や繁栄が欠け、未来は歪む。その歪みを支えるために私たち魔導師が立たされた」


 彼女の脳裏に、あの日の広間が甦る。

 大理石の床は水面のように冷たく、巨大な魔法陣は幾重もの円環と直線で構成され、金と銀の線が星図のように交わっていた。

 床に描かれた印は、触れれば音がしそうなほど精緻で、ひとつひとつが未来の方角を指しているようだった。


 王妃は壇上に立ち、蒼白な顔を覆い隠すようにヴェールを垂らしていた。その声は鋭く、切迫していた。


「民を救うのです。あなたたちの力で未来を掴み取りなさい」


 ヴェラと同僚の魔導師たちは陣を囲み、手を翳した。魔力が収束し、因果の糸がきしむ音が広間に響く。空気は乾き、鼻腔に金属の匂いが混じる。息をするたび、喉の奥が薄く痺れた。


 未来から引き寄せられた「健康な因果」は眩い光となって溢れ出した。

 濁りのない白。


 幾千の小さな糸が束になり、陣の中心で撓んでいる。確かに、そこに病なき未来の断片が宿っていた。

 手を伸ばせば掬えそうなほどに近く、けれど手のひらには決して乗らない距離。


 だが次の瞬間――陣が震えた。

 骨の奥まで届くような、微細で巨大な振動。

 

 未来を削り取る反動が走り、整合性を失った因果が暴れ狂った。引き寄せられた糸の束の中に、別の糸が混線する。過去と未来が瞬きの間に入れ替わる。

 誰かの「まだ」の上に、別の誰かの「もう」が落ちてくる。


 同僚のひとりが息を呑んだ。

 次いで悲鳴。


 輪郭が崩れ、光に呑み込まれ、取っ手の外れた扉のように静かに外界から外れていく。そこにいた人を示すための語彙が、言語から抜け落ちる。名を呼ぼうとした口が、形を作る前に意味を失う。


 名前も記録も残らない。

 因果そのものから削除されたのだ。

 年譜の行を引き抜くように、ただ抜けて、帳面は閉じられる。


「やめろ!」と叫ぶ声も、次々に断ち切られていった。

 ヴェラが必死に因果を補強しようとした。糸を束ね、ゆがみを指で撫で、折れた骨を当てるように魔力を流し込む。

 けれど糸は千切れ、結び目はほどけ、仲間はひとり、またひとりと消えていく。


 消える瞬間、皆同じ表情をしていたわけではない。

 戸惑い、怒り、諦念、祈り。

 けれど共通していたのは、「何かを言おうとしていた」こと。

 最後の呼気に乗りかけた言葉は、いずれも宛先を失って空に散った。


 残ったのはヴェラただひとり。


 広間に漂うのは、誰の名も呼べない空虚。自分の声を響かせる相手すら、もうどこにもいなかった。

 音はあるのに反響はない。

 灯はあるのに、灯りが照らすべき対象がない。


 彼女が残れたのは、強大な魔力を持っていたから――それに、ただ運がよかったからだ。

 魔力の壁で因果の奔流を必死に押しとどめた一瞬、その隙間を生き延びた。

 ほんの紙一重、見えない刃の間を通り抜けたにすぎない。

 だが、その代償として心には氷が張りついた。二度と割れない、と自分に言い聞かせるための氷。


 王妃は唇を震わせながらも、こう言った。


「犠牲は仕方ない。国のために名誉なことです」


 その瞬間、ヴェラの心は凍りついた。言葉は鋭く、正しさの形をしていた。

 だが、正しさはいつも温かいとは限らない。その言葉は、亡き者の頬に置くはずだった手を、自らの胸に突き立てた。


 禁呪の効力によって、疫病は確かに収束した。

 葬列は短くなり、鐘の音は日を置くようになった。市場に戻る露店の数は増え、子どもたちの笑い声が慎重に石畳へ戻ってきた。

 だが、それは未来から引き裂いてきた因果の上に成り立つもの。救いの裏で、どこか遠い未来が犠牲になり、歪んだはずだ。奪われた未来は、別の季節のどこかで穴となって口を開ける。

 今日の笑顔を支えるために、明日の誰かが泣く――その不均衡が、ヴェラの眼にははっきりと影となって見えた。


「仲間は呑まれ、存在ごと消えたの」


 碧眼に苦悶の影が閃いた。

 喉でせき止めた幾つかの名が、声にならないまま揺れる。


「その場にいた私だけが残った。王妃は言ったのよ。『犠牲は仕方ない。国のために名誉なこと』だって。……でも、あの瞬間に私の国は終わったの。王家に仕える意味も、理を守る理由も消えた」


 吐き捨てるような声。けれどそれは、怒りよりも深い絶望の響きだった。

 怒りは燃えるが、絶望は光を吸う。その日吸い込んだ光は、いまだ彼女の胸の奥で解けない。


 ヴェラの白銀の髪が微かに震えている。風のせいではない。彼女自身の記憶が、なおも心を凍らせているのだ。

 セリナは、その震えに気づかないふりをしなかった。見てしまうことが、支えの第一歩だと知っていたから。


「だから私は、因果を正す側に回った。――カインに誘われて」


 その名を口にする声音には、わずかに重みが加わった。自分を拾い上げ、凍った足を再び歩ませた導きの名を告げる、その確かさゆえの重さだった。

 名を言うだけで、背骨が一本通るような感覚。


「私は因果を補強する。セリナ、あなたが見出した糸を、三系統が揃うまで確定させる。それが私の役目。証拠三系統の理を支える支柱よ。ひとつの証言は風に揺らぐ。ひとつの記録は書き換えられる。ひとつの物証は壊される。だから三つ。三つが揃えば、因果は自立して立つ」


 セリナは胸を突かれる思いでヴェラを見つめた。言葉の意味だけでなく、そこに至るまでの重さが、彼女の背筋を伸ばす。


 冷たく澄んだ瞳の奥には、未だ癒えぬ痛みと、それでも未来へ歩む強靭な意志が宿っている。――こんなにも深く傷を抱えながら、それでも立っている人。

 その姿に、セリナは自分のかつての鏡を重ねた。

 笑顔を練習させられた日々の鏡ではなく、今、自分の意思で覗き込む鏡。そこに映るのは、支えたいと願う自分の顔だ。


「……ヴェラ、あなたがいるから私たちは立てる。ありがとう」


 そう口にしたとき、セリナの胸の奥にもうひとつの思いが芽生えていた。

 彼女を支えたい。

 この冷たい影に閉ざされた背中を、少しでも温められる存在でありたい、と。

 支え合うことは、弱さの告白ではない。未来を分け合うことだ。


 ヴェラはわずかに目を細め、無言で頷いた。

 頷きは短く、けれど確かだった。

 言葉にできない了承が、二人の間に静かに置かれる。


 市場のざわめきの中、二人は再び歩き出す。すれ違う商人の声、荷車の軋む音、果実を並べる香り。

 日常の光景が、かえって彼女の言葉の重みを際立たせる。

 塔の影は相変わらず長く、しかし手には、買い物袋の重さという現実もある。生きることは、影と重さを同時に持つことだ。


 その背後で黒い尖塔は、沈黙のまま空を裂いていた。

 王妃が未来を求めて選んだ禁呪の爪痕――それは未だ、王都の空に影を落とし続けている。

 影は動かないように見えて、時刻とともにゆっくり形を変える。

 欺瞞もまた、形を変えて人の間に潜む。


 セリナはちらりとヴェラを見やった。

 無言の横顔は揺るがぬ氷のように冷たく、それでいて、どこか祈りのように澄んでいた。

 その姿に、セリナはそっと息を整える。――この人となら、歩幅を揃えて進んでいける。


 その日の買い出しは、いつもより少しだけ遅く終わった。

 帰り道、陽は塔の背に傾き、街路の影を縞模様にした。縞の白い部分を踏むたび、セリナは小さく息を吐いた。

 影の方を避けているのではない。

 ただ、光の帯を選んでいるだけだ。

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