日常編➆ 剣先より近い距離
朝の稽古場は、冷えた空気に満ちていた。
石畳には白い靄がうっすらとかかり、吐き出した息は白く揺れる。木剣を握る掌はじんと痺れるように冷たい。
私は深呼吸をして、腰を落として構えを取った。
このところ、ひとりで剣の練習を続けている。ギルドでの依頼をいくつかこなすうちに、戦う場面に立ち会うことも増えた。最低限の体力と武器の扱いを身につけねば――そう痛感したのだ。
けれど、剣先は不安定で、踏み込みも甘い。自分でも「弱い」とわかってしまう。
「……やっぱり、独りでは限界かしら」
思わず弱音を吐いた、そのとき。
「限界なのは構えの方だな」
低い声が背後から降ってきた。心臓が飛び跳ねる。
慌てて振り返ると、黒い外套を翻したカインが、腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「カイン!? いつから見てたの?」
「最初からだ。……見張り台からだと、お前は目立つ」
黒曜石のような瞳に射抜かれ、思わず背筋が伸びる。
「見よう見まねは悪くない。だが踏み込みが浅すぎる。地面を蹴れ。足裏で押すんだ」
指摘は鋭い。けれど的確だ。
口を噤んでいると、カインが歩み寄ってきた。
「剣を貸せ」
私は慌てて木剣を差し出す。カインは軽くひと振りする。空気が裂けるような音が響き、私が振るったときとは全く違う。木剣が彼の腕に溶け込んでいるみたいだった。
「構えろ。俺が直す」
言われるままに構えを取り直す。
その瞬間、大きな手が私の手を包んだ。背後から伸びる体温に、心臓が跳ね上がる。
「握りが硬い。力で押さえ込むな。……ここを、柔らかく」
低い声とともに、指先が私の手の甲をなぞる。
触れられるたびに熱が広がり、呼吸が乱れそうになる。
「踏み込みだ。前に出ろ」
「こ、こう?」
「腰が浮いてる。もっと沈め」
耳元に落ちる声。腰を軽く押されただけで、背筋がぞくりと震えた。
近すぎる距離に、胸の奥が熱くなる。
「……悪くない。だが、まだ甘い」
「カインは厳しいわ」
「厳しくなきゃ意味がない」
吐息が頬をかすめる距離。思わず振り向いた瞬間、視線が重なった。
黒い瞳に映る自分から目が離せなくなる。
――その後の稽古は苛烈だった。
カインは容赦なく木剣を打ち込み、私は必死に受け止める。
腕は痺れ、足は震え、汗が背を伝う。
「限界か」
「……まだ、いける」
しがみつくように答えると、カインの口元がわずかに緩んだ。
「その意気だ。だが、無理をすれば折れる」
「大丈夫よ」
強がった瞬間、木剣が鋭く叩き込まれる。
私はよろめき、片膝をついた。石畳の冷たさが手に沁み、悔しさが込み上げる。
けれど、視界に差し伸べられた手が入った。
「強がるな。倒れるのは弱さじゃない。立ち上がれなくなることが弱さだ」
厳しいはずの声が、どこか温かい。
私は唇を噛み、その手を掴んで立ち上がった。
稽古が終わる頃には、息は荒く、全身が汗に濡れていた。
額から滴る汗をぬぐい、木剣を置いた。
「……本当に容赦がないのね」
「仲間を守るのに、容赦はいらない」
カインが水筒を差し出す。冷たい水が喉を潤し、全身に沁み渡った。
ふと見上げると、カインがじっとこちらを見ていた。
「……今日の稽古で分かった。お前はまだ未熟だ。だが――伸びる」
「伸びる?」
「ああ。俺が鍛えれば、必ず」
未来を約束されたみたいな言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ありがとう、カイン」
「礼を言うのは強くなってからだ」
黒い外套を翻し、カインは背を向ける。
その背中を見つめながら、私は木剣を胸に抱きしめた。
痛む腕も、震える足も、不思議と心地よい。
――もっと強くなりたい。
彼の隣で、胸を張れるように。
靄の晴れゆく稽古場で、黒い背を追いかける私の足取りは、少しだけ軽くなっていた。




