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転生者救済編 第九話

商業国家ゼファーの裏社会を束ねる、巨大地下カジノの最奥。

 分厚い防音扉が閉まり、屈強なマフィアの幹部たちやトウヤたちが部屋から退出した直後。


「……っ、が……ぁ……っ」


一人きりになったVIPルームで、ナオキは革張りのソファから崩れ落ちるようにして、高級な絨毯の上に四つん這いになった。

 先ほどまでの、すべてを支配する冷酷な裏社会のボスの顔は、そこにはない。


「はぁっ、はぁっ……くそ、が……っ」


ナオキは胸を強く掻き毟り、脂汗に塗れた顔を歪ませた。

 トウヤたちと対峙し、アイリやツカサから「見知らぬ胡散臭い男」として向けられた、あの冷たい警戒の視線。

 理屈では分かっていた。記憶がないのだから当然だと。だが、かつて互いの命と魂を預け合い、愛を囁き合った妻たちからの『完全な拒絶』は、ナオキの脆弱な精神を鋭利な刃物のようにズタズタに切り裂いていた。


トウヤの前では強がってみせたが、限界だった。

 感覚共有リンクが切断されたことによる魔薬の禁断症状と、圧倒的な孤独感。

 『絶望』を、叩きつけられていた。ただ、虚勢という分厚い皮で無理やり覆い隠していただけで。


(俺は……っ、あいつらにとって、もう……)


孤独に押し潰されそうになり、声にならない嗚咽が喉の奥から漏れかけた、その時だった。


バンッ!!


乱暴な音を立てて、VIPルームの重厚な扉が開け放たれた。


「……っ! 誰だ……!」


ナオキが咄嗟に【生活魔法】の殺意を練り上げ、血走った目で振り返る。

 そこに立っていたのは、息を乱し、メイド服の裾を握りしめた白銀の髪の少女――セリアだった。


「セリア……? お前、なんで……」


ナオキは殺気を霧散させ、呆然と呟いた。

 彼女もまた、自分を見て戸惑っていたはずだ。なぜ一人で戻ってきたのか。

 

だが、ナオキの目に入ったセリアの姿は、先ほどまでのものではなかった。


「はぁっ……はぁっ……ナオキ、様……っ!」


頬は熱に浮かされたように赤く染まり、その瞳には、ナオキが世界で一番よく知っている……あの、底知れないほどに重くて、狂おしい『愛執』の色が、ドロドロと渦巻いていた。


「お前……まさか……」

「思い出しました……っ! 世界がどう書き換わろうと、私の魂が、あんなちっぽけなスキルなんかに……ナオキ様の支配を、奪わせるわけがないでしょう……っ!」


セリアはふらつく足取りで駆け寄ると、絨毯の上に座り込んでいるナオキの足元に、躊躇いもなくその身を投げ出した。


「セリア……っ、お前、本当に俺のことが……」

「お話は後です! それより、早くっ!!」


セリアはナオキの高級スーツの胸ぐらを両手で強く掴み、懇願するように、いや、渇望を剥き出しにして叫んだ。


「リンクを……っ! 私とナオキ様の【感覚共有リンク】を、今すぐ繋いでください……っ!! 早く、早くぅっ!!」


それは、禁断症状に苦しむ中毒者のような、切実すぎる要求だった。

 ナオキは震える手で、セリアの細い首筋に触れた。


「……あぁ、繋ぐ……っ!」


ナオキが魔力のパスを、セリアの魂の最深部へと突き刺した。


『『『――感覚共有リンク、接続を確認』』』


その瞬間。

 バチィィィィンッ!! と、二人の脳髄の間で、凄まじい情報の奔流と、爆発的な快楽のスパークが弾けた。


「あ、あぁぁぁぁぁぁッ……!!」

「はぁぁぁんっ……! な、おき様ぁっ……!!」


ナオキの心の中にずっと溜め込まれていた、ドロドロの絶望が、悲しみが、孤独が、血を吐くような慟哭が、リンクを通じて一気にセリアの中へと流れ込んでいく。

 路地裏で独り、泥水をすすりながら泣きじゃくっていたナオキの記憶。


(あぁ……ナオキ様……私の、可哀想で、愛おしいご主人様……っ)


セリアは、ナオキのその醜くも純粋な絶望を、一滴残らず自らの魂で飲み干した。

 そして、代わりに――空っぽになっていたナオキの心へ、自らの『狂信的な愛』を、決壊したダムのように容赦なく叩き込んだ。


「……っ!! あ……、あぁ……ッ」


ナオキの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 流れ込んでくるのは、システムによる補正でも、偽りの記憶でもない。


『ナオキ様がいなければ、私は生きていけません』

『ナオキ様のいない完璧な世界なんて、反吐が出ます』

『私を支配してください。私を所有してください。私を、貴方だけの道具としてめちゃくちゃに満たしてください……っ!』


重すぎる。暗すぎる。常人なら発狂してしまうほどの、常軌を逸した異常な愛情と依存の熱量。

 だが、その底知れない狂気的なまでの『お前が必要だ』という熱だけが、冷え切り、ひび割れていたナオキの魂の隙間を、完璧に、優しく埋め尽くしていく。


ナオキは、もう強がるのをやめた。

 張り詰めていた鋼の糸が、プツンと音を立てて千切れた。世界を裏から牛耳る魔王としての威厳も、最弱の凡人でありながら強者たちを盤面で転がしてきた冷徹なエゴも、すべてが瓦解していく。


まるで迷子になった子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、目の前の少女を腕が折れるほどの力で強く、強く抱きしめた。

 高級なスーツの生地が皺になることなど構わず、セリアの華奢な肩にすがりつく。彼女の体温、彼女の匂い、そしてリンク越しに流れ込んでくる『絶対的な肯定』が、ナオキのひび割れた魂の奥底まで染み渡っていく。


どれだけ恐ろしかったか。どれだけ、絶望の淵に立たされていたか。

 言葉にしなくても、感情が激流となって溢れ出してしまう。


「俺は……怖かった……っ! お前らに忘れられてて、俺がいらない世界で……俺だけが、独りで……っ!!」


声を震わせ、嗚咽を漏らしながら吐き出したその言葉は、ナオキという男の最も弱く、最も惨めな『本音』だった。


名もなき凡人。それがナオキの本当の姿だ。

 だからこそ、神の理不尽なシステムに対抗するため、誰よりも頭を回し、誰よりも手を汚し、盤面を支配してきた。アイリを、ツカサを、セリアを、そしてルカの勇者としての光を守るためなら、自分から進んで悪役ヒールを演じ、タチの悪い大人の仮面を被り続けてきた。


それが自分の存在意義だった。彼女たちにとっての『必要な悪』であることが、ナオキとこの狂った異世界を繋ぎ止める、唯一の錨だったのだ。


だが、あの白服の男のチートによって、その錨は根こそぎ粉砕された。

 路地裏で目を覚ました時、ナオキを襲ったのは「魔薬の恐怖」だけではなかった。

 世界が自分という存在を排除し、歴史を自動修復したという残酷な事実。愛する妻たちが、自分という泥汚れを持たない『完璧で純白な英雄パーティ』として、何の違和感もなく、幸せそうに笑っているという圧倒的な正解の想像。


――あぁ、なんだ。俺なんて、最初からいらなかったんじゃないか。


その思考に行き着いた瞬間、心臓を素手で握り潰されるような恐怖が全身を駆け巡った。

 俺がいなくても、世界は救われる。あいつらは幸せに生きていける。なら、必死に足掻いてきた俺の人生は、俺の存在は、一体何だったのか。

 その想像のすべてが肯定され、彼女たちからただの「胡散臭いマフィアのボス」として冷たいゴミを見るような目を向けられた時、ナオキの精神はあっけなく崩壊した。


強がって、虚勢を張って、呪詛を吐いた。

 そうでもしなければ、圧倒的な孤独と無価値感に押し潰され、路地裏で自分の喉を掻き切って死んでいたかもしれないからだ。


「俺は、強くなんてない……っ! 何も持ってない、ただの臆病者だ……! なのに、あいつらの記憶の中には俺はいなくて……誰も、俺を見てくれなくて……っ!」


ナオキの口から、無様で情けない言葉が次々とこぼれ落ちる。

 アイリやツカサが隣にいた頃は、【彼女たちと並び立つに相応しい、大人な旦那様】でなければならないというプレッシャーが、無意識のうちにナオキを縛り付けていたからだ。それがない今、気持ちは決壊する。


セリアは違った。

 この歪で空っぽな少女だけは、ナオキが立派な人であることなど最初から求めていなかった。


「はい……っ、はいっ……。一人にして、申し訳ありませんでした、ナオキ様……っ」


セリアは、愛する魔王の背中に腕を回し、その乱れた髪を優しく、慈しむように撫でながら、至上の幸福に満ちた涙を流した。


彼女の細い腕が、ナオキの背中を包み込む。

 リンクを通じて流れ込んでくるセリアの感情には、ナオキの無様な姿への幻滅など一ミリも混ざっていなかった。むしろ、自分がいないと立ってすらいられないほどボロボロに傷ついた愛しい主の姿に、常軌を逸した歓喜と、底知れない母性のような狂愛を滾らせている。


『ナオキ様が弱くても構いません。世界中がナオキ様を忘れても構いません』

『貴方がどれほど醜くても、惨めでも、私だけは貴方を絶対に手放しません』

『私を頼ってください。私を貴方の孤独を埋めるための道具にしてください。私で、めちゃくちゃに満たされてください……っ』


常人なら逃げ出すような、重く、暗く、ドロドロに濁った狂信的な愛。

 だが今のナオキにとって、その異常なまでの『お前が必要だ』という強烈な執着だけが、自分を世界に繋ぎ止めるたった一つの命綱だった。


アイリとツカサが光り輝く完璧なこの世界には、自分の居場所はなかった。

 けれど、セリアという泥沼のように深い闇の中には、自分の帰る場所が、確かにあったのだ。


「あぁ……っ、あぁぁぁ……っ!」


ナオキはセリアのメイド服をギュッと握りしめ、その首筋に顔を埋めて声を上げて泣いた。

 孤独の恐怖が、溶けていく。

 世界から不要の烙印を押されたという絶望が、セリアの狂おしい熱によって急速に中和されていく。


魔薬の暴走を抑え込もうとしていた細胞の一つ一つが、彼女の存在を喰らおうとし、歓喜の声を上げていた。

 自分は一人じゃない。この狂った異世界で、システムという理不尽を強引にへし折ってまで、「俺」という存在を渇望し、狂ってくれる女がここにいる。


「おかえりなさい。私の強くて圧倒的な魔王様」


 その狂信的な全肯定が、最弱の凡人を、再び盤面を支配する『魔王』へと生まれ変わらせるための、絶対的な毒であり、極上の特効薬だった。

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