第四十三話
私たちの力で、神聖グリニア帝国は崩壊した。
何百年もの間、絶対的な身分制度と冷酷なシステムによって民衆を支配し、数多の命をすり潰してきた巨大な歯車は、たった数人の「イレギュラー」たちによって破壊されたのだ。
でも、真の試練は「悪を打倒した日」から始まる。
かつて首に隷属の魔導具を巻かれ、物言わぬ家畜として虐げられていた奴隷たちが、自らの手で自由をつかみ取った。その事実は世界中に激震を走らせたけれど、同時に王都に未曾有の大混乱をもたらすことになった。
昨日まで鎖に繋がれていた人たちは、今日からどうやって生きていけばいいのか分からない。搾取する側だった貴族や富裕層は特権を失って、復讐を恐れて屋敷の奥深くに立てこもっている。物流の要だった魔導列車は運行を停止して、王都の食料備蓄は急速に底をつき始めていた。
治安は崩壊の危機に瀕していて、街の至る所で新たな権利を主張する暴動の一歩手前みたいな小競り合いが頻発している。広場に建てられていた歴代皇帝の豪奢な彫像は引き倒されて、その瓦礫の上で、行き場を失った人々が途方に暮れる――それが、解放された直後の王都のリアルな姿だった。
「おい! 食料の配給区画で西エリアの連中が揉めているぞ! 誰か至急仲裁に行け!」
「ダメです、元帝国兵の警備隊は市民からのヘイトが高すぎて……彼らを向かわせれば、逆に暴動に火を注ぐことになりかねません!」
「なら武闘派を動かせ! 治療院の開放も急がせろ! それから旧貴族領からの物資接収の書類はどうなっている!? 承認印がまだ降りていないぞ!」
王城の一角、かつては優雅なサロンとして使われていた大部屋で、血走った目で怒号を飛ばしているのは、元・帝国特務機関のトップであり、現在は『暫定総理大臣』という胃の痛くなるような役職を押し付けられたユリウスだった。
冷徹な暗殺者やスパイを束ね、帝国の闇を体現し、非情な決断を幾度となく下してきたはずの彼だけど、今は山積みにされた羊皮紙と報告書の山に埋もれて、目の下にはくっきりと深い隈を作っている。
「……なぜ私が、このような事務作業と苦情処理の奴隷になっているのだ……」
ギリッと奥歯を噛み締めながら、徹夜明けの体に、濃く淹れすぎた泥水みたいなコーヒーを胃に流し込んでいる。
答えは分かりきっている。この国を裏から崩壊させて、歴史をひっくり返した「あのふざけた大人三人組」が、国づくりの面倒な表舞台の仕事を全部ユリウスに丸投げしたからだ。「お前、実務得意だろ? 今後の国の形は適当にいい感じに頼むわ」という、悪魔みたいな笑顔とともに。
帝国の中枢システムを誰よりも熟知していて、実務能力が高すぎるがゆえに逃げ出すこともできず、ユリウスは今日も過労死一歩手前のデスクワークに忙殺されている。部下たちも、今は算盤を弾いて、泣きながら物資の在庫管理をしている有様だ。
そして、もう一人。この大混乱の王都を文字通り駆け回っている人物がいた。
「みなさん! 落ち着いてください! 順番に配給は行き渡ります! 暴力で奪い合っても、誰も幸せにはなりません! 小さな子どもたちが怯えているじゃないですか!」
拡声の魔道具を片手に、瓦礫が残る広場で声を張り上げているのは、この私、ルカだ。帝国の最強戦力といえる皇帝と正面から打ち合って勝利を収めた私は、今や解放された民衆たちにとって「光の勇者」として絶対的な希望の象徴になってしまっている。
「ルカ様だ! 光の勇者様が来てくださったぞ!」
「ああ、ルカ様……どうか我々に救いのお言葉を……!」
私が姿を見せるだけで、暴発寸前だった群衆は落ち着きを取り戻して、涙を流して拝み倒す人まで現れる始末だ。母親にはぐれて泣いていた子どもに私がしゃがみ込んでパンを手渡すと、それだけで周囲から歓声が上がるのだ。
私自身は「いや、自分はそんな立派なものじゃないですから! ただの前衛ですよ!」と謙遜するのだけど、民衆が求めるカリスマとして、ユリウスから「頼むから顔を出してください。あなたが笑うだけで三つの暴動が物理的に収まるんです」と土下座の勢いで懇願されて、休む間もなく王都中のトラブルシューティングと慰問に駆り出されている毎日だ。
「はぁっ、はぁっ……やっと、今日の分の視察と調停、終わった……。もう声も出ない……」
夕暮れ時。西の空が赤く染まる頃。
泥だらけになった愛用のブーツを引きずりながら、私はかつての大貴族の邸宅であり、現在は私たちの拠点となっている屋敷の廊下を歩いていた。
肉体的な疲労よりも、慣れない「人々の希望の星」として振る舞い続ける精神的な疲労が限界に達している。誰かに縋られる重圧、正しさを常に求められるプレッシャー。大人たちの汚い欲望や、弱者たちの生々しい要求の板挟みになりながら、それでも気丈に振る舞い続けるのは、決して簡単なことではなかった。
「政治とか、復興とか……チートと戦うよりよっぽどしんどいよ……HPよりMPが削られる……」
ふらふらになりながらも、私の足取りには少しだけ期待と熱意が混じっていた。
向かう先は、屋敷の最奥にある、日差しがたっぷりと差し込む広々としたリビング。
きっとあの部屋では、私が表舞台で必死に汗を流している間、頼れる「師匠」たちが、恐るべき頭脳と計算で、この国の未来を決定づけるような裏の仕事を進めているはずだ。
有能なツカサさんは、旧帝国の隠し資産や貴族たちの裏帳簿を完璧に掌握して、新たな経済基盤の構築と富の再分配に奔走しているだろう。
強かなアイリさんは、持ち前の愛嬌と交渉術で、周辺諸国との外交ルートをこっそり繋いで、食料支援の根回しをしているに違いない。
そして何より、あの底知れない冷徹さと優しさを併せ持つ師匠が、ユリウスすらも手駒として動かしながら、この混乱を完璧に収束させるための盤面を俯瞰しているはずなのだ。私に見えないところで、あの人たちは誰よりも重い責任を背負って戦ってくれているに違いないのだ。
「よしっ……!」
両手でパンッと自分の頬を叩き、気合を入れ直す。
自分だけが疲れた顔を見せるわけにはいかない。きっと大人たちが裏で必死に戦ってくれているんだから、自分も胸を張って「今日も王都の平和を守ってきた!」と元気に報告しなきゃ。
柔らかな西日が差し込む、リビングの重厚なオーク材の両開き扉。
私は、期待と尊敬の念を胸いっぱいに抱えて、その扉の大きなノブに力強く手をかけた。
「師匠! 今日の分の任務、無事に完了しましたよ!!」
……って。
「……何やってるんですか!!」
顔を真っ赤にして叫んだ私の視線の先。そこには、特大のソファーの中心で完全にダメ人間と化した師匠の姿があった。
右腕にはアイリさんがべったりと抱き着き「ナオキぃ、あーんっ♡」とフルーツを口に運び、左腕にはタイトスーツ姿のツカサさんが「はぁっ、あ・な・たの体温……んふっ最高ですわ……っ」と身悶えしながら密着している。
王都の復興という名の修羅場が扉の一枚隔てた外で繰り広げられているというのに、この部屋だけがまるで別次元みたいに甘ったるく、そして絶望的なほどに怠惰な空気に満ちていた。
部屋の中央に鎮座するのは、旧帝国の皇帝が座っていたのだろう、最高級の魔獣の柔らかな毛皮を贅沢に使用した特注の巨大ソファー。その中央に深々と、重力に逆らうことを完全に放棄して沈み込んでいる師匠は、かつて数多の死線を潜り抜けてきた冷徹な魔王の面影なんか微塵もなく、目を細めて完全に骨抜きになっていた。
「ん……あむ。……アイリ、この果物うまいな。なんだこれ」
「ふふっ、南の旧貴族領から献上された最高級の幻光メロンだよ。甘くて美味しいでしょ? 私が丁寧に種も取ってあげたんだから。はい、もう一口。あーん♡」
「あーん……うん、うまい。噛まなくても溶けるな……」
師匠は自ら手を動かして食事をすることすら放棄して、口を半開きにしてアイリさんから次々と甘い果肉を放り込まれている。かつて冷徹に人を殺していたあの人が、今は「噛むのすら面倒くさい」という極限の甘えを許容して、それをアイリさんが嬉々として受け入れているのだ。そのだらけきった顔は、帝国を裏から支配した男とは到底思えない、ただの腑抜けたヒモ男のそれだった。
さらに酷いのは左側に陣取るツカサさんだ。
旧帝国の特務機関が顔負けするほどの超有能な頭脳を持っていて、現在この国の崩壊した経済基盤を根底から作り直す要であるはずだ。しかし今、ツカサさんの態勢は常軌を逸していた。
「すぅぅぅぅぅぅぅ……っ! はぁぁぁぁ……っ! ご主人様の、この無防備な寝起きの匂いと、脈打つ命の鼓動……っ! 痛覚すら凌駕する圧倒的なカリスマの奥底に潜む、この人間らしい温もり……っ! あああっ、私の脳内魔薬が致死量を超えてしまいますわぁぁぁっ!」
ツカサさんは師匠の左腕に顔を深く埋めて、まるで高級な違法ポーションでもキメているかのような恍惚とした表情で、激しく深呼吸を繰り返している。しかも恐ろしいことに、ツカサさんの片手は空中で目にも留まらぬ速さでペンを走らせて、山積みになった国家予算の決裁書類、復興支援の資源配分、果ては治安維持部隊の再編成の指示書に至るまで、一切のミスなく完璧に処理し続けていたのだ!
「ちょ、ツカサさん!? 息遣いが気持ち悪いですよ! ていうか書類仕事しながら師匠の匂い嗅ぐのやめてください! どんなマルチタスクなんですかそれ!!」
限界を迎えた私が、悲鳴のようなツッコミを入れる。
外ではユリウスが血反吐を吐きながら山積みの事務処理と格闘して、私は泥だらけになって民衆の暴動を鎮め、一人でも多くの笑顔を取り戻そうと必死に駆け回ってきたというのに。この大人たちは、世界を救った最大の功労者であることをいいことに、新国家の最重要拠点であるこの屋敷のド真ん中で、ただイチャイチャと堕落を貪っているのだ! いやツカサさんは予想通り猛烈に仕事しているけれど!
「なんで三人でイチャイチャベタベタしてるんですか! 恥ずかしくないんですか!! 私とユリウスの苦労をなんだと思っているんですか!!」
顔から火が出そうなほど赤面して、肩で息をしながら抗議する私に対し、アイリさんは全く悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげにふんすっと胸を張った。
「えー? だって、私たち正式な夫婦だもん。ルカちゃんが立派に世界を飛び回って『光の勇者』やってる間、私たちはここでたっぷり『家族の絆』を深めて、世界の平和を祈ってたんだよ?」
「裏で色々やってくれてたのはわかりましたけど! 実働部隊の私の身にもなってくださいよ!」
「十分な休息も必要ですわ、ルカ」
書類の束から顔を上げたツカサさんが、キリッとした真顔で(ただし左頬は師匠の腕にべったりと擦り付けたまま)言い放った。
「いいですか? 私たち大人が無理に表舞台に出れば、旧帝国の残党や無用な野心を持つ者たちに余計な刺激を与えかねません。ここはルカという清廉潔白なシンボルを前面に押し出し、私たちは裏から盤石な支援とシステム構築を行う……これこそが、最も血が流れず、効率的で平和的な統治プロセスなのです。そして、その裏方業務を私の頭脳で完璧にこなすための絶対的なエネルギー源こそが、この『密接なスキンシップ』なのですわ! これが欠ければ、私はわずか三秒で発狂し、この国を更地に変えるでしょう!」
「もっともらしい理屈つけてただ欲求満たしてるだけじゃないですか!! しかも最後のはただの脅迫ですよ、この変態!!」
私の悲痛な叫びが響き渡る中、諸悪の根源である師匠は、ようやく重い瞼を少しだけ持ち上げた。
「……うるさいぞルカ。お前な、俺たちがこれまでどれだけ理不尽な目に遭ってきたか忘れたのか? クソみたいな神に弄ばれて、死に物狂いでこんなところまできたんだ。……これくらい、システムだって許してくれるだろ」
「師匠まで開き直らないでください! 確かに師匠はいつも凄かったけど、その後の表の作業全部丸投げはズルいですよ!」
「ズルくない。これは俺たちの『正当な報酬』だ。それに……」
師匠は不敵に笑うと、右腕のアイリさんを軽く引き寄せ、左腕のツカサさんの頭を乱暴に撫でた。
「俺がこうやってこいつらを甘やかしておかないと、こいつら、俺への執着を拗らせて、マジで帝国レベルの国を一つ二つ滅ぼしかねないからな。俺は今、己の身を挺して世界の平和を守るという、最も過酷なミッションをこなしている最中なんだよ」
「なっ……!?」
「あはは、ナオキったら大袈裟! でもぉ、ナオキ分が不足したら、ちょっとアイドルになってこの国支配しちゃうかも♡ ナオキの邪魔をするやつは、全員虜にしてあげるからねっ」
「あ・な・た……っ! その深い慈愛、そして私の本質を理解してくださる圧倒的な包容力……っ! 一生、いえ、魂が消滅するまでついていきますわ……っ!!(スゥゥゥゥッ)」
「ああもう!! 全然反省してないですね!! 馬鹿ばっかり!!」
私は両手で顔を覆った。怒りや呆れを通り越して、もはや当てられっぱなしの熱で気恥ずかしさが全身を駆け巡っている。
戦場では誰よりも頼りになる、最強で最恐の師匠。そして、彼を狂気的なまでに愛してやまない規格外のツカサさんとアイリさん。
彼らがこうして平和な空間で、何の警戒心もなくバカみたいに笑い合い、ただの「だらしない大人」としてイチャついている。その光景が、実はどれほど奇跡的で尊いものか、私の胸の奥にも痛いほど分かってはいるのだ。
家族が傷つかず、笑い合える場所を作る。それが彼らの戦う理由だったのだから。
分かってはいるのだけど――。
「……でも、外で血眼になってるユリウスにだけは、絶対にこの部屋の惨状は見せられないですね……あの人、本気で泣き出すかもしれない……」
私が引きつった笑いを浮かべて呟くと、師匠がメロンを咀嚼しながら親指を立てた。
「安心しろルカ。あいつの執務室の扉、俺の【生活魔法】を応用して内側から絶対に開かないように密閉しておいたから。食事と水だけは小窓から差し入れてる。明日の朝までは一切の邪魔が入らず、書類仕事に集中できるはずだ」
「鬼!! 師匠の血は何色なんですか!! ユリウスが過労死したらどうするんですか!!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏む私。その様子は、民衆から崇められる『光の勇者』という威厳ある姿ではなく、ただの年相応の、理不尽な大人に振り回される少女そのものだったと思う。
「あはは……なんかもうすごいですね」
激怒して肩で息をする私の背中を、後ろから部屋に入ってきたトウヤが苦笑いしながら宥めてくれた。トウヤの視線の先でも、相変わらず師匠は両手に花(というか、猛獣みたいな愛情を向けてくる二人の女性)の状態で、悪びれる様子もなく欠伸を噛み殺していた。あまりにも平和ボケした、でも変わらないやり取り。トウヤは可笑しそうに目を細めた後、ふと、その視線を師匠へと真っ直ぐに向けた。
普段の温厚な彼からは想像できないくらい、少しだけ緊張した面持ちで。
そして、私の死角から「あの、ナオキさん……後で少し、二人だけで相談が……」と、ぼそっとつぶやいたのだ。
私は何かあるのかなと思い、疲れているのもあったから「じゃあ私、休ませてもらうっす」と言って、その場から離れることにした。




