第8話 屋敷に咲く工夫
食堂を後にしたセリーヌのドレスの裾には、まだスープの染みが残っていた。
替えの服に着替えるべきだとわかってはいたが、彼女はあえてそのまま屋敷の廊下を歩いた。
冷たい視線と嘲笑を受ける現実。
けれど、グレイヴ家で幾度も屈辱を味わってきた彼女にとって、今さらひとつの染みごときは大したことではなかった。
その隣を歩くマルグリットが、恐る恐る口を開く。
「奥様……本当に、そのままでよろしいのですか?」
「ええ。気にしないで」
セリーヌは穏やかに微笑んだ。
「私に必要なのは、美しい衣装よりも、この家での居場所だもの」
ふと通りかかった倉庫の扉が半開きになっていた。
中をのぞくと、棚には麻袋や木箱が乱雑に積まれている。
同じ種類の食材が二重に発注され、古いものが奥で忘れられているのが一目でわかった。
「……もったいない」
セリーヌはため息をつき、マルグリットに振り返った。
「少し手伝ってくれる?」
「は、はい!」
二人は袖をまくり、棚の奥から古い麻袋を引き出す。
埃をかぶった穀物袋を点検し、まだ使えるものと使えないものを分ける。
さらに木箱に日付を書き込み、新しいものは手前へ置いた。
マルグリットは驚きながら尋ねた。
「奥様、こんなことまで……どうしてそんなにお詳しいのですか?」
「領地で、父や兄の手伝いをしていたからよ。物の流れをきちんと見ないと、すぐに損をするの」
セリーヌは穏やかに答えながら、まるで自分の家を整えるかのように作業を続けた。
その様子を、廊下にいた数人の使用人が目にしていた。
「……公爵夫人が倉庫の整理?」
「まさか。伯爵家が貧乏だから、こういうことに慣れてるのかしら」
嘲笑混じりの声が漏れる。
だが、数時間後――。
整理された棚は一目瞭然で分かりやすく、すぐに物資を取り出せる状態になった。
余計な重複も減り、料理人たちは口々に「助かる」と呟いた。
「……これは確かに、便利だな」
「うむ、前よりもずっと良い」
冷笑していた使用人たちの中から、思わず感心の声が洩れる。
セリーヌはその反応に特に驚いた様子もなく、ただ軽く会釈して倉庫を後にした。
だが、その光景を陰から見ていたリュシアンヌの心には、黒い炎が燃え上がっていた。
彼女は唇を強く噛む。
胸の奥に浮かぶのは、憧れ続けてきたレオンハルトの姿。
無口で冷ややかでも、その佇まいは誰よりも気高く、美しかった。
(レオンハルト様……どうして、あんな娘を妻に選んだの?)
たとえ形だけでも。
それだけで、彼女にとっては耐えがたい事実だった。
夜、レオンハルトはいつものように妻を避け、自室へ籠もった。
だが執事からの報告を受けたとき、彼の眉がわずかに動く。
「……倉庫の整理を、彼女が?」
「はい。奥様は領地での経験を活かされたご様子で。料理番も助かっております」
レオンハルトは応えなかった。
ただ机上の書類に視線を落としながらも、その心には小さな驚きと、ほんのわずかな興味が芽生えていた。




