第5話 小さな手助け
その日、セリーヌは屋敷の中を静かに歩いていた。
相変わらず、すれ違う使用人たちは会釈こそするものの、視線は冷たい。
廊下の大理石に響く自分の足音だけが妙に大きく感じられ、胸の奥がひりついた。
――それでも。
私は公爵夫人として、この屋敷での役割を果たさねばならない。
そう自らに言い聞かせていたとき。
廊下の角で、若いメイドが重そうな籠を抱え、今にも落としそうになっているのが目に入った。
床に布やシーツが崩れ落ち、慌てて拾い集めている。
「大丈夫?」
セリーヌは思わず声をかけた。
メイドは驚いたように顔を上げ、目を見開いた。
「……い、いけません! 奥様のお手を煩わせるなど……!」
「そんなこと、気にしないで」
セリーヌは膝をつき、自ら布を拾い上げた。白く滑らかなリネンに手を伸ばすと、ほんのり洗剤の香りが鼻をかすめる。
彼女の動きは迷いがなく、上品でありながら自然だった。
メイドは慌てて手を振った。
「おやめくださいませ、奥様のお立場では……!」
「立場なんて関係ないわ。困っているときは助け合うものよ」
セリーヌは微笑みながら布を重ね、籠に戻した。
ほんのわずかな仕草で、彼女の誠実さがにじみ出る。
アルヴァン伯爵家では、母の看病や家事に追われ、誰かのために手を動かすことが日常だった。彼女にとってそれは「特別なこと」ではなく、自然に身についている振る舞いだった。
籠を抱え直したメイドは、顔を赤らめて俯いた。
「……ありがとうございます」
セリーヌは柔らかく頷いた。
「いいのよ。あなたが笑顔で働ける方が、私も嬉しいわ」
その一言は、堅く閉ざされていたメイドの心に、小さな波紋を広げたようだった。
夕刻。
食堂へ向かう途中、先ほどのメイドが恐る恐る声をかけてきた。
「あの……奥様」
「はい?」
「先ほどは、本当に助かりました。……皆、奥様のことを誤解しているのです」
セリーヌは少し首を傾げる。
「誤解?」
「公爵様が、奥様に心を寄せておられないことは、屋敷中に知られております。ですから、私たちは……その……」
言葉を濁すメイドの肩が小さく震える。
――彼女は公爵の意志を恐れ、夫人に近づいてはいけないと感じているのだろう。
セリーヌは静かに頷いた。
「分かっています。けれど、私はここで与えられた役目を果たしたいだけなの」
その真摯な声に、メイドははっとしたように目を見張り、それから深々と頭を下げた。
「あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」
セリーヌの問いに、メイドは少し戸惑いながら答えた。
「……マルグリット、と申します」
「マルグリット。いい名前ね」
セリーヌは柔らかく頷いた。
「ねえ、もしよかったら……私の侍女になってくれない?」
「えっ……!」
マルグリットは籠を抱いたまま目を見開いた。
「わ、私が奥様の……? ですが、私はまだ若輩で、礼儀も心得ておらず……」
「だからこそ、お願いしたいの」
セリーヌの声は優しく、しかし真剣だった。
「私はこの屋敷で一人でいるのに慣れているけれど、それでも支えてくれる人がいてくれたら心強いわ。あなたなら……一緒に歩んでくれる気がする」
マルグリットは口を結び、震える手で籠の持ち手をぎゅっと握った。
そして、涙をこらえるようにして深く頭を下げた。
「……そんな大役、私に務まるか分かりません。けれど……奥様のお役に立ちたいと思います」
セリーヌはふっと微笑み、そっと彼女の肩に手を置いた。
「ありがとう、マルグリット。これから、よろしくね」
セリーヌは自室の窓辺に立ち、庭に落ちる月明かりを見つめていた。
冷えた夜気が頬に触れ、胸の奥の孤独をかすかに和らげる。
――まだ、屋敷の大半は私を受け入れてはいない。
けれど、たった一人でも心を通わせられた。
アルヴァン家が苦境に陥って以来、失われていた感覚が胸の奥に蘇る。
人に必要とされること、人の役に立てること――それは、どんな宝石よりも温かく、尊いものに思えた。
セリーヌはそっと胸に手を当てる。
「契約だけの妻」であっても、自分らしさを失わずにいられるなら、この屋敷に居場所を築けるかもしれない。




