外伝5 誕生
嵐の前のように静かな夜だった。
窓を叩く雨音が遠くに響く中、グレイヴ公爵邸ではただ一室だけが慌ただしさに包まれていた。
――セリーヌの出産が始まったのだ。
侍女たちが行き交い、産婆が指示を飛ばす。香油の匂いと緊張が入り混じる空気の中で、レオンハルトはただ廊下に立ち尽くしていた。
「旦那様、奥様はお強い方です。どうかご安心を……」
老執事の言葉にも、彼の心は揺れていた。
戦場で幾度も死線を越えてきたこの男が、今ほど恐怖を覚えたことはない。
――セリーヌを失うかもしれない。
胸の奥を掴まれるような思いで、拳を握り締める。
そのとき、部屋の奥からセリーヌの苦しげな声が響いた。
「……っ、ああ……!」
レオンハルトは思わず扉に手をかけた。だが、すぐに侍女に制される。
「旦那様、どうかお待ちを! 奥様にとって今は……!」
「だが、あの声を聞いて黙っていられるものか……!」
彼の声は震えていた。
それでもどうにか自制し、扉の前で祈るように立ち尽くすしかなかった。
汗に濡れたセリーヌの顔は真っ赤で、髪が額に張り付いている。
何度も押し寄せる痛みに声をあげながらも、必死に息を整え、産婆の声に従った。
「奥様、もうすぐです! どうか力を……!」
胸の奥に宿るのは恐怖ではなく、彼への想いだった。
あの日から、いつも彼は「守る」と言ってくれた。けれど今は、彼に新しい命を渡すのは自分の役目だ。
――彼と生きる未来を、もっと確かにするために。
「うっ……あああっ!」
最後の力を振り絞り、声を張り上げた。
そして――。
「……生まれました! 元気な男の子です!」
産婆の声とともに、力強い産声が響いた。
部屋の外でそれを聞いたレオンハルトの膝から力が抜け、思わず壁に手をついた。
「……生まれた……!」
彼は我を忘れて扉を押し開け、中へ駆け込む。
セリーヌは疲労でぐったりとしていたが、その腕には小さな命が抱かれていた。
赤子はまだかすかに泣き声をあげていて、セリーヌは震える手でその頬をなぞっている。
「セリーヌ!」
駆け寄ったレオンハルトの顔を見て、彼女は微笑んだ。
「……レオンハルト様。ご覧ください……私たちの子です」
彼の胸に熱いものが込み上げる。
小さな手、小さな体。こんなにも弱々しい存在が、自分とセリーヌの愛の証なのだ。
「……ありがとう、セリーヌ。本当に……ありがとう」
彼は涙を隠そうともせず、妻と子を同時に抱きしめた。
戦場では流さなかった涙が、今は止めどなく零れ落ちる。
翌朝、雨は上がり、澄み渡る青空が広がっていた。
赤子は静かに眠り、その寝顔をセリーヌとレオンハルトは並んで見守っていた。
「本当に小さいですね……。この子が大きくなれるでしょうか」
セリーヌの声には、母としての不安が滲んでいた。
レオンハルトはその肩を抱き寄せ、低く答える。
「大きくなる。必ずだ。……私が育てる。お前と共に」
「ええ……一緒に」
二人はそっと視線を交わし合った。
赤子がふと寝返りを打ち、小さな手を空に伸ばす。
その仕草に、セリーヌは思わず笑った。
「ねえ、レオンハルト様。あの子の名は……どうしましょう」
レオンハルトはしばし考え、柔らかく微笑んだ。
「――アルノー、はどうだろう。強く、誠実に育つようにと願いを込めて」
「アルノー……」
セリーヌはその名を口にし、愛おしげに赤子の頬を撫でた。
「ええ、とても素敵ですわ」
こうして、小さな命は「アルノー」と名付けられた。
その誕生は、二人にとって新たな物語の始まり。
レオンハルトはセリーヌの手を取り、赤子を見つめながら静かに言った。
「これからは三人で生きていこう。どんな困難があろうとも」
セリーヌは微笑み、強く頷いた。
窓の外、雲間から差し込む陽光が、三人を祝福するように降り注いでいた。




