表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/48

外伝5 誕生


 嵐の前のように静かな夜だった。

 窓を叩く雨音が遠くに響く中、グレイヴ公爵邸ではただ一室だけが慌ただしさに包まれていた。


 ――セリーヌの出産が始まったのだ。


 侍女たちが行き交い、産婆が指示を飛ばす。香油の匂いと緊張が入り混じる空気の中で、レオンハルトはただ廊下に立ち尽くしていた。


「旦那様、奥様はお強い方です。どうかご安心を……」

 老執事の言葉にも、彼の心は揺れていた。

 戦場で幾度も死線を越えてきたこの男が、今ほど恐怖を覚えたことはない。


 ――セリーヌを失うかもしれない。


 胸の奥を掴まれるような思いで、拳を握り締める。

 そのとき、部屋の奥からセリーヌの苦しげな声が響いた。


「……っ、ああ……!」


 レオンハルトは思わず扉に手をかけた。だが、すぐに侍女に制される。

「旦那様、どうかお待ちを! 奥様にとって今は……!」


「だが、あの声を聞いて黙っていられるものか……!」


 彼の声は震えていた。

 それでもどうにか自制し、扉の前で祈るように立ち尽くすしかなかった。




 汗に濡れたセリーヌの顔は真っ赤で、髪が額に張り付いている。

 何度も押し寄せる痛みに声をあげながらも、必死に息を整え、産婆の声に従った。


「奥様、もうすぐです! どうか力を……!」


 胸の奥に宿るのは恐怖ではなく、彼への想いだった。

 あの日から、いつも彼は「守る」と言ってくれた。けれど今は、彼に新しい命を渡すのは自分の役目だ。


 ――彼と生きる未来を、もっと確かにするために。


「うっ……あああっ!」


 最後の力を振り絞り、声を張り上げた。




 そして――。


「……生まれました! 元気な男の子です!」


 産婆の声とともに、力強い産声が響いた。

 部屋の外でそれを聞いたレオンハルトの膝から力が抜け、思わず壁に手をついた。


「……生まれた……!」


 彼は我を忘れて扉を押し開け、中へ駆け込む。




 セリーヌは疲労でぐったりとしていたが、その腕には小さな命が抱かれていた。

 赤子はまだかすかに泣き声をあげていて、セリーヌは震える手でその頬をなぞっている。


「セリーヌ!」

 駆け寄ったレオンハルトの顔を見て、彼女は微笑んだ。


「……レオンハルト様。ご覧ください……私たちの子です」


 彼の胸に熱いものが込み上げる。

 小さな手、小さな体。こんなにも弱々しい存在が、自分とセリーヌの愛の証なのだ。


「……ありがとう、セリーヌ。本当に……ありがとう」


 彼は涙を隠そうともせず、妻と子を同時に抱きしめた。

 戦場では流さなかった涙が、今は止めどなく零れ落ちる。




 翌朝、雨は上がり、澄み渡る青空が広がっていた。

 赤子は静かに眠り、その寝顔をセリーヌとレオンハルトは並んで見守っていた。


「本当に小さいですね……。この子が大きくなれるでしょうか」

 セリーヌの声には、母としての不安が滲んでいた。


 レオンハルトはその肩を抱き寄せ、低く答える。

「大きくなる。必ずだ。……私が育てる。お前と共に」


「ええ……一緒に」


 二人はそっと視線を交わし合った。




 赤子がふと寝返りを打ち、小さな手を空に伸ばす。

 その仕草に、セリーヌは思わず笑った。


「ねえ、レオンハルト様。あの子の名は……どうしましょう」


 レオンハルトはしばし考え、柔らかく微笑んだ。

「――アルノー、はどうだろう。強く、誠実に育つようにと願いを込めて」


「アルノー……」

 セリーヌはその名を口にし、愛おしげに赤子の頬を撫でた。

「ええ、とても素敵ですわ」




 こうして、小さな命は「アルノー」と名付けられた。

 その誕生は、二人にとって新たな物語の始まり。


 レオンハルトはセリーヌの手を取り、赤子を見つめながら静かに言った。


「これからは三人で生きていこう。どんな困難があろうとも」


 セリーヌは微笑み、強く頷いた。

 窓の外、雲間から差し込む陽光が、三人を祝福するように降り注いでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ