外伝1 新婚生活の始まり
結婚式の翌朝。
グレイヴ公爵家の屋敷に、柔らかな朝日が差し込んでいた。
花々の香りがまだ残る庭園を渡ってきた風が、寝室のカーテンをそっと揺らす。
セリーヌはゆっくりと目を覚ました。豪奢な天蓋の下、昨日までとは違う世界にいるような感覚が胸に広がる。
――私はもう、正真正銘公爵夫人なのだ。
その実感に胸が高鳴ると同時に、どこか落ち着かない。今までは病床の母を気遣い、絵筆を取って生活を支える日々だった。華やかな朝を迎えるなど、思いもしなかった。
ベッドの隣に視線を向ける。そこには、まだ眠っているレオンハルトの姿があった。
端正な横顔。整った眉に、閉じられたまつげの影。普段は威厳に満ちている彼が、今はただ静かに息をしているだけ。
その姿を見つめていると、胸の奥がくすぐったくなり、思わず視線を逸らしてしまった。
そのとき、ノックの音がした。
「ご朝食の準備が整いました」
執事の声に、セリーヌは小さく返事をして、慌てて起き上がる。
「……朝食……」
思わず呟くと、背後から低い声がした。
「……起きたか」
振り返ると、レオンハルトが目を開けていた。まだ寝起きのはずなのに、眼差しは鋭さを帯びていて、セリーヌはどきりとする。
「おはようございます、公爵様」
かしこまって頭を下げると、レオンハルトはわずかに眉をひそめた。
「……その呼び方はやめろ。もう夫婦なのだ」
「え……」
「レオンハルトでいい」
さらりと言われ、セリーヌの顔は一気に赤く染まった。
――夫婦だから、名前で。
その距離の近さに心臓が跳ねる。
レオンハルトはそんな彼女を一瞥し、寝台から立ち上がった。長身の彼が無造作に身支度を整える姿は、どこか野性味があって目を奪われる。
「朝食に行こう」
短く告げられ、セリーヌは慌てて身支度を整え、彼の後を追った。
初めてちゃんと夫婦として並んで座る朝食の席。
広々とした食堂に、豪華な銀器と温かい料理が並ぶ。
セリーヌは緊張で背筋を伸ばしたまま、手を伸ばすのもためらっていた。
そんな彼女を見て、レオンハルトは無骨にナイフを取ると、皿の上の料理を一口に切り分けた。
「食べろ。口に合うか」
「えっ……」
差し出されるフォークに、セリーヌは耳まで赤くなる。
「そ、それは……」
「気にするな。夫婦なのだろう」
淡々とした声だが、どこか不器用な優しさがにじんでいる。セリーヌはためらいながらも口に運んだ。
「……おいしいです」
そう答えると、レオンハルトの眉がわずかに緩んだ気がした。
「なら、よかった」
その一言が胸に温かく広がり、セリーヌはふと微笑んでしまった。
気づけば彼の視線とぶつかり、慌てて俯く。
――夫婦として向き合うというのは、こんなにも照れくさいものなのだろうか。
食事を進めながら、レオンハルトは不意に問いかけた。
「困っていることはないか」
「え?」
「何でも言え。屋敷のことでも、生活のことでも。お前がここで不自由を感じるのは望まぬ」
その真剣な声音に、セリーヌは胸を打たれた。
――この人は、本当に私を気にかけてくれている。
昨日の誓いの言葉が蘇る。
「……ありがとうございます。快適ですよ」
そう告げると、レオンハルトは少し驚いたように目を見開き、それから視線を逸らした。
「……そうか」
短く答える声がどこか照れているように聞こえて、セリーヌの胸が熱くなる。
食後、廊下を歩く二人。
レオンハルトは歩幅を無理に合わせ、ゆっくりと進んでいた。
そのさりげない気遣いに気づき、セリーヌの胸にまた温かなものが広がる。
廊下の窓から差し込む光が、彼の横顔を照らしていた。
どこまでも強く、誰よりも高みに立つ存在。だが、その隣にいるのは――自分。
思わず呟いてしまった。
「これからは、ずっと一緒なんですね……」
レオンハルトは立ち止まり、彼女を見下ろした。
「当たり前だ。お前は、私の妻だ」
真っ直ぐな言葉に、セリーヌは目を潤ませる。
そして二人は自然に微笑み合った。
――新しい生活が、今まさに始まったのだ。




