第3話 初夜の宣告
セリーヌがグレイヴ公爵家の敷居をまたぎ、執事に案内されたのは重厚な扉の奥――公爵の執務室。
高い天井と壁一面の書架に圧倒される中、机の向こうに座るレオンハルトの姿があった。
「まずは契約を交わしていただきます」
クラウスが机の上に書類を差し出した。羊皮紙に記された文面は、婚姻の誓いというよりも無機質な取り決めに過ぎなかった。
一行一行に目を通すごとに、セリーヌの胸の奥は冷えていく。
――互いの生活に干渉しないこと。
――三年後には協議のうえで離婚すること。
――離婚の際には、慰謝料としてセリーヌが不自由なく暮らせる金額を支払うこと。
――この契約の存在を他者に口外しないこと。
それは、まるで夫婦の縁を結ぶのではなく、取引の条件を列挙しているようだった。
「……こちらに署名を」
クラウスが静かに筆を差し出す。
セリーヌは一瞬だけ迷った。
しかし、すぐに心を固める。
――私はアルヴァン家の娘。この結婚は家を救うためのもの。感情に流されるわけにはいかない。
羊皮紙に「セリーヌ・ド・アルヴァン」と署名した。
その瞬間、彼女の未来は、三年後に終わる婚姻へと定められたのだった。
レオンハルトも淡々と署名を終え、書類をクラウスへと渡す。
それから冷たい視線をセリーヌに向けた。
「これで形式は整った。……あとは互いに干渉せず、静かに過ごせばいい」
それは祝福の言葉でも、夫婦の始まりを告げるものでもなかった。
セリーヌはただ深く頭を下げ、言葉を飲み込むしかなかった。
その夜――。
豪奢な寝室に入ったセリーヌは、昼間の契約の冷たさをまだ胸に引きずっていた。
金の装飾が施された柱、深紅の絨毯、広すぎる天蓋付きの寝台。
どれもが彼女を歓迎するのではなく、異邦人として試すように見える。
「――誤解のないように言っておく」
低い声に振り返れば、レオンハルトが扉の前に立っていた。
灰色の瞳がまっすぐに彼女を射抜く。
「これは白い結婚だ。君を愛することはない」
昼間の契約をなぞるようなその言葉に、セリーヌの胸はずしりと沈んだ。
愛のない結婚だと分かっていた。それでも、実際に口にされると心が軋む。
「……承知いたしました」
震えを押し殺し、セリーヌは一礼する。
声の奥に隠された寂しさを、彼が感じ取ることはなかった。
レオンハルトは窓辺に歩み寄り、夜空を見つめたまま背を向ける。
「好きに過ごせばいい。ただし、私の生活に口を挟むな。それだけ守ってくれればいい」
拒絶を示すその背中を見ながら、セリーヌは母の形見のペンダントをそっと握りしめた。
レオンハルトは窓辺から離れ、寝台の脇を通りすぎて扉の方へと歩いた。
「言い忘れていたが……」と、ふと足を止める。
「この寝室はあくまで形式上のものだ。右手にある扉の奥が私の居室、左手が君の居室だ。互いの部屋に立ち入る必要はない」
振り返った彼の灰色の瞳は、やはり冷ややかだった。
その視線は、これ以上近づくことを許さぬ境界線を引くようでもあった。
セリーヌは裾を揃えて小さく会釈し、静かに答える。
「承知いたしました」
その瞬間、二人の間には寝室だけでなく、心にも確かな隔たりが築かれたのだった。




