第16話 絵筆の下に咲くもの
春の陽が降り注ぐ庭園は、柔らかな風に花の香りを乗せていた。
セリーヌはマルグリットと並んで歩きながら、花壇に咲く小さなスミレを指さした。
「見て、マルグリット。去年よりもずっと鮮やかに咲いているわ」
「本当ですね、奥様。お世話をしている庭師が、今年は肥料を工夫したんです」
そう言って微笑むマルグリットの顔に、セリーヌもまた柔らかな笑みを返した。
伯爵家にいたころは、生活に追われて花を楽しむ余裕などなかった。
けれど今、こうして季節の移ろいを感じられることが、何より心を癒していた。
庭園の奥に設けられた白いガゼボ。
セリーヌはそこに腰を下ろし、持参したスケッチ帳を広げた。
伯爵家の領地が干ばつに苦しむ中でも、唯一続けられた趣味――絵を描くこと。
絵筆を走らせれば、どんなに重い現実も一時だけは忘れることができた。
今、セリーヌの視線の先にあるのは、陽光を受けて輝くバラのアーチ。
その瑞々しい赤を、彼女は懐かしむように描き写していく。
「やっぱり……絵を描いている時が、一番落ち着くわね」
小さくつぶやく声は、風に溶けて消えた。
彼女の横顔には、静かでありながら確かな幸福が宿っていた。
その様子を、少し離れた廊下の窓からじっと眺めている影があった。
レオンハルトである。
筆を握り、真剣な眼差しでキャンバスに向かうセリーヌの姿に、なぜか目が離せなかった。
彼女が笑ったり、首を傾げたりするたびに、胸の奥が微かにざわめく。
(……何をしているんだ、私は)
ただの契約の妻。お飾りの存在――そう割り切っていたはずだ。
けれどその横顔を見つめていると、不思議なほど視線を外せなくなる。
「……公爵様」
背後から低い声がして、レオンハルトははっと我に返った。
振り向けば、執事のクラウスが控えめに立っていた。
「奥様のことが気になりますか?」
淡々とした問いかけだった。だが、核心を突いていた。
レオンハルトは思わず言葉を詰まらせる。
「いや……そんなことは……」
そう否定しようとしたが、声がかすれ、続く言葉が喉に引っかかって出てこない。
クラウスは静かに一礼し、それ以上は追及しなかった。
だが、その眼差しにはどこか温かな理解が宿っていた。
執務室にひとり腰掛けたレオンハルトは、書類を前にしながらも思考が定まらなかった。
ペンを取っても、紙の上に描かれるのは意味をなさない線ばかりだ。
脳裏に浮かんでしまうのは、昼間の光景。
ガゼボで絵を描くセリーヌの静かな横顔。
花に彩られた庭園の中で、柔らかく微笑む姿。
机に突っ伏し、深い吐息を洩らした。
(……なぜ、あんなにも気になる? 彼女はただの……契約の妻だろう)
それでも、瞼を閉じれば思い出す。
――陽光を浴びて筆を走らせる、あの真剣で美しい表情を。




