第14話 小さな輪の中で
リュシュアンヌと侍女長が屋敷を去ってから数日が経った。
それまで陰鬱な色を帯びていた空気は、嘘のように晴れやかになり、使用人たちの表情からも緊張の翳りが消えつつあった。
その変化の中心にいるのは――セリーヌであった。
朝露に濡れる庭を散歩していたセリーヌは、薔薇の花壇の前で足を止めた。花弁のひとつをそっと指先でなぞり、静かに息を吐く。
「まあ、奥様……」
声に振り返ると、庭師の老婦人がいた。驚いたように目を見開き、それから深く頭を下げる。
「お手を汚されますのに……」
「いいえ。庭に咲く花々を見るのは好きなのです。とても見事に育っていますね」
「奥様にそう仰っていただけるとは……。手をかけてきた甲斐がございます」
老婦人の目尻に刻まれた皺が、誇らしげに緩む。
その横から、小さな少女が駆け寄ってきた。庭師の孫娘だ。両手に握られているのは、小さな花束。
「お、おくさま……これ、どうぞ……」
「まあ、ありがとう」
セリーヌは嬉しそうに受け取り、胸元に差し込んだ。その笑顔を見て、少女の頬がぱっと赤らむ。庭師もまた、静かに微笑んでいた。
――そのひととき、主と使用人の垣根など、どこにもなかった。
それからしばらくして、セリーヌは屋敷の中を歩いているうちに、ふと鼻をくすぐる香りに足を止めた。
肉と野菜の旨みが溶け合ったような温かな匂い。焼きたてのパンの香ばしい匂い。
(……いい匂い)
思わず吸い込むように香りをたどり、辿り着いたのは厨房の扉だった。
今までも気になってはいた。けれど、公爵夫人として勝手に立ち入るのは憚られて、これまで一度も中に入ったことはなかった。
だが、この日は――自然と扉を押し開けてしまっていた。
「お、奥様!?」
「奥様が……厨房に……!」
中にいた料理人たちが一斉に驚き、慌てて立ち上がる。包丁を置く者、鍋をかき混ぜる手を止める者。まるで不意の王の来訪を受けたような動揺ぶりだった。
「ごめんなさい。邪魔をするつもりはなかったの。ただ、いい匂いがして……」
セリーヌは少し恥ずかしげに微笑んだ。
そのとき、料理長が一歩前に出る。恰幅のよい体を揺らし、やや緊張した面持ちで言った。
「……もしよろしければ、味見をしていただけませんか?」
「わたしが?」
「ええ。奥様のお口に合うかどうか、ぜひ」
差し出されたスプーンを受け取り、鍋からすくったスープを口に運ぶ。
舌の上に広がったのは、優しい味わいだった。
セリーヌは目を細め、頬をほころばせる。
「……とても美味しいです」
その言葉に、厨房の空気が一変した。
料理人たちの顔に笑みが広がり、誇らしげなざわめきが生まれる。
「奥様にそう言っていただけるなんて……!」
「やはり、手を抜かずに仕込んできてよかった」
その後、料理長の勧めで、セリーヌは料理人や女中たちと一緒に使用人用の休憩室に腰を下ろすことになった。
丸い木のテーブルに囲まれ、湯気の立つお茶が並ぶ。使用人たちは最初こそ戸惑っていたが、セリーヌが笑みを浮かべて会話を始めると、少しずつ打ち解けていった。
「奥様が厨房にいらっしゃるなんて、本当に驚きました」
「ええ、でも……奥様のお声を聞いていると、不思議と緊張がほどけて……」
「ふふ、それはよかったわ。私はただ、美味しいものを作ってくださる皆さんに感謝を伝えたかっただけなの」
笑い声が弾み、心の距離が縮まっていく。
マルグリットも傍らで、穏やかな笑顔を浮かべていた。彼女にとっても、奥様が孤立せずに輪の中に加わっていく姿は、嬉しいものだった。
そんな光景を、レオンハルトは遠くから見ていた。
執務室の窓から、廊下の陰から。彼は決して近づかず、ただ視線を向けていた。
庭で花を愛でる彼女の姿。
厨房で料理人と共に笑う姿。
使用人たちと輪になり、茶を片手に談笑する姿。
――そのすべてが、彼の知る「形式だけの妻」という像から大きく外れていた。
(……なぜ、これほど自然に溶け込める?)
彼女は命じない。ただ寄り添うだけ。
それだけで、人々の心は解け、彼女を中心に小さな輪ができあがる。
白い結婚――何も求めない関係。そう定めたはずなのに、彼女は白に温かな色を落とし込み、屋敷全体を少しずつ変えていた。
レオンハルトは窓辺に立ち尽くし、唇を引き結んだ。
胸の奥で広がるざわめきに、彼自身まだ名を与えることができなかった。




