第1話 没落の影
「誤解のないように言っておく。――これは白い結婚だ、君を愛することはない」
その言葉は氷のように冷たく、セリーヌの胸を貫いた。
初夜の寝台の前。新しい夫となったレオンハルト・フォン・グレイヴは、感情を一切感じさせない声でそう告げたのだ。
表情も崩さず、まるで契約の一文を読み上げるかのように。
セリーヌは答えられなかった。ただ唇を噛みしめ、かろうじて笑みの仮面を保つ。
胸の奥に生まれるのは羞恥でも怒りでもなく、深い虚しさ。
――ああ、やはり。これは愛のない結婚。分かっていたはずなのに。
静寂が流れる。
その瞬間、彼女の心は自然と過去へと引き戻されていった。
アルヴァン伯爵家の屋敷は、かつては王都でも名の知れた誇り高き家柄だった。
けれど今、その応接室には古びた家具と色褪せた絨毯が置かれ、かつての栄華は見る影もない。窓枠はひび割れ、冷たい風が隙間から忍び込んでくる。
セリーヌ・ド・アルヴァンは椅子に腰かけ、正面に座る父の言葉をただ黙って聞いていた。
「……セリーヌ。お前にしか、この家を救う道は残されていない」
やつれた伯爵の顔には深い皺が刻まれ、その声には長年の疲労がにじんでいた。母の長い闘病を支え続けた結果、家の財はほとんど失われてしまった。さらに、領地を襲った干ばつが追い打ちをかける。
かつての誇りはもはや仮初めで、残っているのは爵位と家名だけだった。
「父上……」
隣に控えていた兄が苦渋の表情で口を開く。兄エドモンは王宮で文官を務めながら、父を助けて領地の政務を支えていた。しかし、どれほど尽力しても家計を立て直すことはできなかった。
「本来なら私がなんとかすべきだった。だが……現実は厳しい」
兄の拳が膝の上で震えているのを、セリーヌは横目に見た。
胸の奥が締めつけられる。
父も兄も、自分をひとりの娘ではなく、家を救う駒として見ている。理解している。責めるつもりはない。けれど、心のどこかで、寂しさが疼いてしまう。
「相手はグレイヴ公爵家だ。王国随一の名門であり、財も地位も揺るぎない。……お前さえ嫁げば、アルヴァン家は救われる」
父の言葉は厳しくも必死だった。
王国筆頭公爵家。その一人息子、レオンハルト・フォン・グレイヴ。
名は聞いたことがある。だが、直接顔を合わせたことはない。
政略の結婚。それは、セリーヌの未来から「愛」という可能性を奪い去るものだった。
思わず胸元のペンダントに手をやる。母の形見。幼い頃からずっと支えになってきた小さな装飾品。
愛を失っても、誇りまで失うわけにはいかない。
セリーヌはゆっくりと息を整え、父と兄を見つめ返した。
「承知いたしました、お父様。……私は、アルヴァン家の娘です。この身をどう使おうと、家のためならば受け入れましょう」
静かな声でそう告げた瞬間、兄が目を伏せ、父は小さくうなずいた。
けれどもその場に、彼女をただ「幸せになってほしい」と願う言葉をかける者はいなかった。
窓の外では冷たい風が木々を揺らしていた。
それはまるで、セリーヌを待つ未来の厳しさを告げるかのようだった。
そして今――。
豪奢な寝室で、白い結婚を宣告される現実の前に立たされている。
父も兄も、この孤独を予想していただろうか。
いや、違う。これは自ら選んだ道。アルヴァン家の娘としての誇りを貫くための。
セリーヌは背筋を伸ばし、夫の冷たい瞳を真正面から見つめ返した。
その視線の奥に、わずかな希望を探しながら。




