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アナタとワタシの善悪

 霧が立ち込める森を形成していた木々はすべてなぎ倒されていた。


 夢か現か。俺はそんな森の中、地べたに座り込みうずくまっている男の前に立っていた。


 男はすすり泣いているようだった。


 そんな彼を傍で眺める自分がいることには特に何の驚きも湧かなかった。そして、その男を哀れだとも思わなかった。ただ、そこには男がいる。そんな事実を受け入れる作業が頭の中で繰り返されているだけ、深い思考を割く必要はない。


「俺は嫌われてしまったみたいだ」


 背中を丸めた男の影に目をやる。その影も寂しそうだった。影は彼を映す本当の鏡のように男と同じ裂傷した心を持って悲嘆にくれている。彼がどれほど落ち込んでいるか、そんな意思を持った彼の影を見ればよく分かった。彼はそう全身全霊でこの夢の中で悲しみを表現していたのだろう。


 ここは夢なんだと、それで分かった。


 そして、夢の中で現実の心配をすることはなかった。


 夢とはもうひとつの現実で、夢の中では夢の中のことだけ考えればいい。


「何をそんなに落ち込む必要があるんだ?彼女は別にあんたにとってなんでもないだろ」


 俺は座り込む彼にそう言った。


「なんだと…?」


 彼の声に苛立ちが募る。悲しんだり怒ったり忙しい奴だ。


「だって、そうだろ、彼女の名前は?」


 男はその質問に答えられず怒りを押し殺して黙り込む。


「彼女の本当の顔だって見たことがないんだろ?」


「う、うるさい、そう言うお前はどうなんだよ」


「どうって何が?」


「彼女のことだよ、気にならないのか?」


 困った問いを投げ返された。気になるか気にならないかと聞かれれば、気になった。しかし、別に今ここで話している、おそらくたぶん夢の中であるこの霧が立ち込める森で、出会った少女のことに関して一番よく分かっていることは、何も分からないそれだけだった。

 いや、少しは分かることがあった。それはそこにいる男が酷く嫌われているということだ。それくらいは見ていればわかった。


 ただ、彼女の気持ちを考えるとこの男が嫌われている理由は当然のものであることは明らかだった。

 この森に来て彼がやったことといえば、森中の木々を彼の後ろの影がすべて踏み荒らしてしまったことが原因で間違いなかった。

 それが分かっていたかのように彼が森に入って来ると、その霧の少女は言葉の尽くす限り彼を否定し、この森から追い出そうとしていた。


 そんな彼が彼女に償いもせずに彼女のことが気になる気にならないなどのような話をするのはなんとも馬鹿馬鹿しいと思った。


「気になるならない以前に、お前は彼女に謝るべきだとは思わないのか?森をこんなめちゃくちゃにして、彼女が大切にしていた森だったかもしれないんだぞ?」


 この森を少女がどう思っているか知るはずもなかったが、守るということは彼女にとってこの森は意味があるということだ。だから、そんな大切にしていたものを踏みつぶされて怒らない人がいないわけがない。仮にもしもそんな怒りを抑え込めたとしたら、その人にとってはどうでもいいことに違いない。


「俺は悪くない、俺は彼女を探していただけだ」


 呆れた。それで誰かの大切を踏みにじってもいいというなら、この世に秩序はない。といってもここは夢の中、本当に秩序なんてものは存在しないのかもしれないが。


「まあ、いい、とにかく、今度彼女にあったら最初に謝ることだ。例え許してもらえなくても、許してもらえるまで謝るべきだ。そして、償っていくべきだ。彼女に自分ができることをしてやるんだ」


「俺は…」


「駄々をこねるな、もう子供じゃないんだ、罪と向き合えよ」


 男は立ち上がると、振り返って俺のところまできて、胸ぐらに掴みかかって来た。


「お前はそうやって、どうして他人事でいられる?」


「そう怒るなよ、いいか、これはどっからどう見てもお前の問題だろ?違うか?彼女の忠告を聞かず、森を荒らし彼女に嫌われた、どこからどう見てもお前の問題だ」


「違う、お前にも俺を止めることができたはずだ…なのに、なのにお前は傍観してた、お前にならもっと別の選択が…」


 そこで俺は彼に本当のことを言ってやった。


「無理だ」


「はぁ?どうして!?」


「俺はこの森をお前に潰して欲しかったからだ」


「なんだと…」


 男が間の抜けた顔をで後ずさった。かなりショックを受けたようだった。


「正直に言おう、俺も彼女のことは凄く気になった。だからこそ、隠す気はなかった」


 霧の少女は何か不思議な魅力があった。可愛いとかこのみだとかきっとそういうのは顔が見えないからそもそも分からなかったけれど、そう、彼が彼女に執着するように、最初から自分の傍にいるべき人、みたいな傲慢にもほどがある感情を搔き立てられるような、そんなある種の運命を感じていたのかもしれない。


「知って欲しかったんだ。誰にでも悪い面はある。それが俺にも例がなく備わっていること、正しいという生き方だけでは、自分が自分でいられなくなってしまうこと、誰かに提示された正しさじゃ、もう、生きてる意味がないってこと。わかるか?だから、俺はその証明のために、お前にこの霧がかっか森をめちゃくちゃにしてもらったんだ」


 これが私の一面です。そんな挑戦的なメッセージを受け取った彼女がどんな反応をするか?それは今から彼女に会いに行けば分かることだった。


 彼女に受け入れられるか?拒絶されるか?


 そんなの結局は彼女次第だった。


「俺は今から彼女に会いに行く、お前も来るか?」


 男は放心状態だったが、いきなり拳を握りこむと思いっきり俺のことを殴りつけて来た。正直、すげぇ痛かった。ただ、それだけ目の前の男が彼女ことを本気だったことがよくわかった。


「俺はお前に踊らされたのか?」


「勝手に踊ったのはお前だろ?殴って気が済んだか?俺はもう行くぞ」


「殴り足りないと言ったら?」


「どれくらい殴りたい?」


「お前を殺すまでだ」


「そうか、まあ、それもいいが、お前は彼女に会いたくないのか?」


 交渉始める。このまま殺されても面白くない。それに痛い思いはなるべくしたくない。誰だってそのはずだ。


 みんなだってそうだろ?


「お前、彼女がいる場所を知ってるのか?」


「ああ、お前がこの森を荒らしまわってすねて背中を丸めてる間に、ちょっと先の草原で見つけた」


 男は拳を緩める。それでも怒気がこもった声で言った。


「その場所なら俺も知ってる…だが、あそこにはもう彼女はいなかった…」


「そうか、まあ、お前が来なくても俺は行くけどな」


「行くよ、俺も…」


 男は諦めたように言った。


「そうか、なら行こう」


 俺と男は森の中を歩き始めた。


 ***


 二人が荒らされた深い霧の森をしばらく歩いていると、木々の数と霧の濃さが徐々に減っていき、やがて森の入り口まで何度か道を間違いながら時間をかけてようやく辿り着くことができた。その道中は各々何か考えがあって、道を間違えた時の喧嘩を除けば、ずっと静寂を保っていた。

 そして。

 森を抜けた先に広がっていたのは言った通り草原だった。ただ、その草原の至るところにうっすらと霧がかかっており、辺りは薄暗く、気持ちのいいものではなかった。というよりもこの夢の中自体に、どこか霧と密接に結びついてるのか?きっと、この世界の街を訪れても、山を訪れても、海を訪れたとしても、どこもかしこも霧が立ち込めては何もかもをぼかしてしまっているのだろう。草原に生えている草もどこか色素の薄い緑で、生命の明るさというものを失っていた。だからこそ道にも活気が無く迷いやすかったのかもしれない。


 ただ、二人がそんな不明瞭な草原を進んで行くと、小さな丘の上に立つ一本の木の下に、彼女はいた。

 正確にいうと、彼女たちがいた。

 なぜ彼女たちなのかというと、そこには二人の顔を霧で隠した女性が木陰に座っていたからだ。


 片方は霧の森であったと思われる女性だった。その女性が立ち上がるとこちらを酷く警戒しているようだった。


 そんな彼女に臆することなく俺だけがその丘を登って彼女に会いにいった。

 連れ添って来た男は彼女に怖気づいて丘の下で足踏みしていた。


 彼女たちはまったく瓜二つでまったく同じ姿で見分けが付かなかったので、一方を怒った彼女、もう一方をそう、大人びた彼女とでも名付けることにした。それは俺の心の中だけの呼び名に留めておいた。怒った彼女も好きで怒っているわけじゃないかもしれないからだ。そして、大人びた彼女も好きで大人びているわけじゃないのかもしれない。


 大人びていた彼女は、木陰の下、膝を折って座り背を向けていた。遠くの霧が立ち込めるぼんやりとした不確かな未来のような退屈な景色を眺めている。


 彼女に声を掛ける前に怒った彼女が、俺の前に立ちはだかった。


「あなた、よく、ここに顔を出せたわね、もう絶対に許さな……って……あれ…………」


 怒った彼女が俺の顔をまじまじと見ると言葉を失った。


「…………」


「なにか?」


「あ、あなた、その…違くて………」


 戸惑いを隠しきれないように慌てふためく彼女。


「何が違う?」


「え、あ、その、さっき森を荒らしていた人とは別の人だったから」


「別人じゃないよ」


「え!?」


 顔は見えなかったが、怒った彼女がすごく驚いていたことはよく分かった。


「顔もまったく同じでしょ?」


「でも、全然違う、あなたはあんな命を粗末にする人じゃない…」


「命?ハハッ、なにそれ、そんなものここにはないでしょ?」


「…あ、え、えっと……」


 困っている怒った彼女がどうしたらいいかオロオロしていると、後ろにいた大人びた彼女が口を挟んだ。


「あんまりいじめないであげて」


 気が付けばそこにはもう怒った彼女は消えて、大人びた彼女だけが残っていた。


「少し君と話がしたいんだけど隣いいかな?」


「いいよ、ハル」


 俺は彼女の隣に座り、彼女と同じ遠いぼんやりとした不確かな未来を眺めた。そして、彼女に抱いた違和感を投げてみた。


「どうして俺の名前を知っているの?」


「言えない」


 何をもって言えないのか?言えないということは誰かから脅されたり、言ったら何かを失ったりするのだろうか?


「そっか、じゃあ、君の名前教えてくれたりする?」


「言えない」


 困った。これでは話にならない。それに質問攻めにするのも好きじゃない。ここは一度話の方向性を変えることにした。この夢の中でそこはかとなく感じ取ったルール。そのルール内のことなら彼女とも語れると思ったので、そう言う話をすることにした。


「さっきの彼女は君のなんだったのかな?」


「善よ」


「善か、良き行いをする君ってことでいいのかな?」


「そう、彼女は私の掲げる正義そのもの、さっきまで下にいた彼はあなたのなんなの?」


 丘の下でくすぶっていた男の姿はすでに消え、俺の一部となって混じって溶けていた。


「あれは俺の悪。悪い部分。普段の俺ならしないような悪さを平気な顔でやってくれる。俺の大事な一部」


「悪を憎まないの?」


 彼女は不思議そうに尋ねる。


「悪は憎むべきだよ、だけど俺は自分の悪を心底憎むということはしない。それは自分を許さないことと一緒だからね。自分を許せなくなると、唯一の味方であるはずの自分が敵になってしまうからね。それはこの世のどんなことより悲しいことだ。誰かを愛せるのも自分が存在しているからこそ成り立っている。だから、俺は自分の悪だって受け入れる。みんなだって少なからずそうだろ?程度は違うにせよ、だって、そうじゃないと、自分が自分でなくなる…なあ、人の本性は悪にあると思わないか?」


 大人びた彼女は未来から目を逸らし、俺の顔を見つめていた。その霧の渦で熱心に。


「悪が人の本性?」


「……うん」


「悪が、私の……本当の姿?」


「…例えばだけどね」


「そうか、そうなんだ……」


 彼女はどこか深く感銘を受けたような様子だったが、この考えはどう考えても俺自身が耐えきれない罪から逃げ切るためのただの言い訳にすぎなかった。それに自分の悪を受け入れるこれよりも遥かに素晴らしい人間の姿はあった。


「ごめん、そこまで俺の言葉を深く受け止めなくていいよ、今のは俺の弱さからくるものなんだ。本当に凄い奴は自分を犠牲にしてでも誰かのために正しい行いをを貫く、善を貫く、そんなやつなんだ」


 それは俺にはできなかったことだった。


「自分以外の誰かのために自分が犠牲になる。それは愛とも呼べるかもしれない。だけどその誰かの枠が広がれば広がるほど、愛はやがて自己犠牲に変わり、いずれ自分の身を削り身を滅ぼして、みんなのために死ぬ。結局、それで、どうでもいい人たちから称賛されたり、崇められたり、歴史書に載って後世に語り継がれてさ、それが?だからなに?そんなことに意味が無いってことをたぶん死んだやつらはみんな知ってる。そんなことよりも愛する人たちのためだけにこの身を捧げる。それさえできれば、それが自己犠牲に繋がるならいい、その犠牲は必ず立派な愛を生む。だけど、望まない自己犠牲ほど虚しいものはない。そこに愛はないよ、絶対にね…」


 自分の行いを正当化することは簡単だ。それでもその自分のエゴで愛する人たちを守れるなら、これに越したことは無い。


「だから、俺は自分の中に悪を飼い続けていたんだ。愛する人を犠牲にするくらいなら俺は悪を選んだ。その選択がたとえ間違っていても、俺はおそらく後悔しないだろうね」


 ひとりでぼんやりした未来を見ながら話していることに気付くと、ずっと聞いてくれていた彼女の方に目をやった。


 彼女は固まったように俺の話に聞き入ってくれていた。


 そして、彼女はどういうわけか、俺の方に徐々に距離を縮めてくると、ゆっくりと最終的には抱きしめていた。


「あの、これは?」


「私、わかった気がするんだ」


「なにが?」


 下を向くと彼女の燻る顔があった。


「この胸の奥につっかえていた感情に決着がついた。そのつっかえを取ってくれたのはやっぱり、ハル、あなただった」


「役に立てたってこと?」


「とっても」


「それはよかった」


 俺の弱さが結果的に彼女に少しでも勇気を与えられたのなら、苦悩したことにも意味があった。


「ねえ、ハル」


「なに?」


「やっぱり、私ね…」


 これは夢だった。


「あなたのことが………」


 彼女が言い切る前に、夢は唐突に終わってしまった。


 良いところで突然終わる。


 それこそまさに夢らしく、ここはやはり夢の中だった。


 目が覚める前に気になるのは、彼女が言いかけた言葉がなんだったのか?


 けれど、ハルにはなんとなく彼女が言いたかったことが分かっていた。


 おそらくそこには愛があった。


 愛の言葉が。



 *** *** ***



 目を覚ましたハルがベットから体を起こす。薄暗い早朝。窓の外はまだ冷たい空気と静寂に包まれていた。

 隣では、まだルナが静かな寝息を立てて眠っていた。

 ハルはベットで眠るルナの顔を覗き込んだ。


 相変わらず自分にはもったいないほどの美人さんで、彼女がもしも普通の女性で、自分と普通の社交場などで出会っていたら、こんな田舎から出て来た騎士なんか、おそらく話の内容も、王都育ちの彼女のような都会の進んだ最先端の文明と、田舎の泥臭くも自然に囲まれた文明では釣り合いが取れず、見向きもされなかったことだろう。


 それでも、こうして彼女はハルの隣にいてくれた。

 ハルは彼女の寝返りで乱れた前髪を撫でるように整えた。

 ぐっすり眠っていた彼女の口元が緩む。


「ハルゥ……」


 まだ夢の中にいた彼女が自分の夢を見てくれているのなら、それが彼女にとって幸せな夢なら、ハルはそれだけで幸せだった。


「さて、朝食でも作るかな」


 ハルはルナをひとしきり撫で終わると、先にひとり彼女を残してベットから飛び降り、朝食を作るために寝室を出てキッチンに向かう。


 キッチンで、ハルは鼻歌を歌いながら、ルナとフレイのために朝食を作るのだった。


「フフッ、フフン~」


 キッチンで、ハルは野菜を刻みサラダをつくり、パンを焼いて、卵料理を作る。


 朝が明けていく。


 そして、今日はなによりザイード卿と交わした約束の日でもあった。

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