五
つぎの昼、色吉は歩兵衛の部屋にいた。なんでも歩兵衛に相談することがすっかり習いになっている。歩兵衛はよい助言をくれることもあるが、たいていは茶を飲みながら黙って聞いているだけだ。それでも、話すことによって話が色吉のなかでまとまってよく見えるようになるのだ。
留緒がすました顔で運んできたお茶を飲みながら、お紀有から聞いた話を自分なりに整えながら伝える。
「衣坂屋ってのは、十八年むかしの火事んときにいっぺん焼け落ちたそうなんで」
歩兵衛はうなずいた。「神田の大火事だの」
「話を聞かしてくれたお紀有ちゃんってのもそん頃は奉公はもちろん生まれてすらねえんですが、女ってのは子供といえどもあなどれねえ地獄耳なもんで、どっから集めんのか、いろんなことを知ってやがって。いや、これは筋を逸れやした」
衣坂屋の主人、当衛門には、妻とのあいだに三人の男の子と一人の女の子がいたが、その火事で妻と息子の四人を一度に失ってしまう。当衛門の手元にただひとり残された娘は、そのときまだ生まれたばかりだったという。
それまではのんびりとした性質だった当衛門も、それ以来人が変わってしまった。厳しく融通の利かぬ性格になり、馬車馬のごとく働いて店の再建に東奔西走する。そうして四年ほどたったときには、衣坂屋は以前よりもはるかに立派になり、土地も大きくなっていた。
それからまた一年ほどのちに、また火事が起こったときには、今度はまえのよりももっとひどかったにもかかわらず、大きく頑丈な土蔵のおかげで商品はほとんど無傷であった。前の大火事を教訓にふだんから備えていたおかげで親子と奉公人たちは全員無事に避難した。みな怪我ひとつなかった。
いまの内儀の八重は七年前に衣坂屋に入った。それまでは飲み屋の女将などしていたらしい。娘のお末が大きくなってきていて、女親の必要性を感じてのことだったが、そんな泥縄で年頃の女の子がなつくはずもなく、かえって難しいことになったようだった。
衣坂屋に残されたただひとりの子として、お末は婿をとり跡をとることになる。今年十九で、年齢的には手代にも四、五人つりあいのいいのがいるが、なんといってもふさわしいのは番頭の友吉である、というのが衆目の一致するところであった。
「まあ、つまり周りの奉公人の見るところでは、ってことでやすがね。お紀有ちゃんは学があるんだか、やたらむつかしいことばを知ってやがる」
「留緒の友達というから、寺子屋にも通っておったんじゃろう」
ところがおとついの晩、夜遅く、みなが寝静まったのちに、その友吉と内儀の八重が庭で密会しているところをお紀有が見てしまった。
それ以来、いつも誰かに見られているような。見張られているような――
「――なんだか、おっかないんだそうで」
「そのお八重さんというのはいくつくらいのお人じゃ?」
「四十をふたつみっつ回ってるっつうことですが、これがちょっと見たところ三十そこそこくれえにしか見えないうば桜でして」
「番頭の友吉というのは?」
「二十七だそうで。八重の親戚筋ということで、八重が後添いにきてからその伝手で衣坂屋に丁稚奉公に入ったようです。なかなかできるやつで、古株の手代を何人も飛び越して番頭になったとか。ま、古株の手代、つっても大火事のあとで当衛門がどっかから連れてきた、当時でも三十を越えた、おっさん連中だったようで、まあなにしろ人手不足の充足だから、それほど優秀なのがそろってたわけじゃなかったんでしょう」
「火事のとき、当衛門はいくつくらいかの?」
「いま五十半ごろっていいますから、三十七、八……四十近いくらいでしょう」
「当衛門の連れてきた手代というのは、それより若いくらいかのう」
「そうでやすね、大吉中吉小吉ってのが筆頭のようですが、これがいま四十半ばから五十くらいのようです」
「うむむ」
歩兵衛は腕を組んでしばし黙考していた。「色吉殿、ちょっと気になることがあるのだがのう」
色吉が羽生邸を出て裏木戸へと歩いているとき、庭では洗濯桶の横で、留緒と理縫が向かいあって変な踊りを踊っていた。理縫はきのう留緒にさんざおどかされたことももう忘れてしまったようだ。
留緒が顔をあげると色吉と目が合った。にやりと笑う。色吉も笑い返し、木戸を出ていった。
夕刻。
衣坂屋の裏口から人影が出て、足早に神田方面に向かう。下男の千吉だった。建ち並ぶ長屋のうちの一軒の戸をくぐり、娘のお江の住む部屋に入っていく。
「まずい、まずいぞ」
千吉が言った。「悠長に構えてもられねえ」
「ずいぶんあわてて、どうしたってんだよ、おとっつぁん」
お江が言った。頭巾をかぶっていないその顔は、衣坂屋のひとり娘のお末に瓜二つだった。
「おとっつぁんはやめろと言ってるだろうが」
「お父さま」
言って、お江は鼻で笑ってしまう。「それで、どうしたっていうんですの」
「お末の婿取りが決まった」
「なんだって?」
それまでのんきに薄笑いを浮かべていたお江も顔色を変えた。「どうすんだよ、なんでそんななるまで放っといたんだよ、お父さま」
「しかたねえだろう、おれだって今聞いたんだ」
「それでいつなんだい」
「だからついさっきだよ」
「そうじゃない、嫁入りはいつだって訊いてんだよ、この馬鹿――お父さま」
「嫁入りじゃなくて婿取りだって言ってるだろうが」
「大事なのはそこじゃないだろ、それでいつなんだよ、この馬鹿お父さま」
「もうあさってには見合い、それから五日で結納だって話だ。それで聞いておどろくなよ、相手は店の番頭や手代をさしおいて、外から迎えるってんだ、それも商人の次男三男じゃなく、御家人たあいえお武家の次男だっていうんだからおどろくじゃねえか」
「おどろくんだかおどろかないんだかどっちなんだよ。とにかく、じゃあもう間に合わないじゃないか、あんたがぐずぐずしてるからだろ、このぼんくら、お父さま」
「おめえはさっきから。お父さまって終いにつけりゃ途中なに言ってもいいってわけじゃねえぞこら。はなからケツまで言葉に気を付けやがれ」
「口が悪いのはおめえ譲りだろうが、だいたいいまさらお嬢口調にしたってしょうがなくなってしまったんじゃありませんか、どこかのぼんくらがぐずぐずしてたおかけで。ねえ、お父さま」
「しかたねえだろう。火事だの事故だの事件だの、なんか起こらない限りなかなか入れ替わ……そんな機会なんぞねえ。まさか自分で起こすわけにも――」
お江がまた薄笑いを浮かべ、千吉はわが娘がなにを考えているかを悟り、ぞっとして言葉をのんだ。
「それよ」薄笑いだったお江の口がにたりと大きく拡がった。「自分で起こすしかないんじゃないかい……ないんですの、お父さま」
「おっかねえこと言うなよ。火事なんざ起こしたら、火炙りにされっちまう」
「事故だって事件だっていいのよ」
千吉はぶるぶると首を振る。「よせよ、こうなったらそんな派手な手じゃなくて、もう少しこう、こっそりとやれねえもんかね」
「そうだ、見合いってことは相手もお嬢のことをよく知らないんだろ? そのうえ代替わりするなら、こいつはいい機会かもしれなくってよ、お父さま」
「どういうこった」
「つまりさ、お嬢の人が変わったとしても周りは結婚で浮かれてるんだか落ち着いたんだか、とにかくそれほど不審には思われないだろうし、旦那さんと過ごす時間が増えりゃあ父親の当衛門と顔をあわせなくなってもそれほど不自然じゃないだろう」
お江は上品に笑った。




