四
寝るまえの戸締りをして回りながら、お紀有は胸が音をたてて打っているのを感じていた。昨日の夜、外の庭でお内儀さんと番頭さんが密談しているのを、ここから見てしまったのだった。今日は自分が、ここをでて裏木戸に回らなければならない。
まさかお内儀さんたち、今晩もいないだろうな。お紀有は息を止めて、耳をすました。
自分の心臓がどんどんいって邪魔をするが、あたりに物音はしない……と思う。人の気配もそこらへんにはない……と思う。それでも用心してしばらく待ってから、お紀有は懐からわらじを出して静かに縁石に置くと息を殺したままそっと庭に出た。
足音がたたないように気をつけながら、足早に歩いていく。そろそろ月が昇ってきて、暗さに慣れた目にはずいぶんと明るく感じてしまう。なるべく隅のほうを回るようにして、裏木戸に近づいた。
心張り棒をはずそうと手をかけたとき、外で話し声がした気がした。
戸に耳を近づけ、様子をうかがう。
低い声と、やや高い声。なにやら言い争っているのだろう、ひそひそと声を落としてはいるものの早口のやりとりにいらだちが混ざっているのを感じる。
誰だろう、どうしよう。今晩は引き返したほうがいいだろうか。でもここでへたに動いて物音でもたててしまったら、外の悪いやつに気づかれて、つかまってしまうかも。
そう考えて、お紀有は身を固くした。木戸の向こう側の話し声は続いている。と、お紀有は目を丸くし、心張りをはずすと裏木戸を開けた。
「留緒ちゃん?」
色吉と留緒が、衣坂屋の裏口のまえで顔を突き合わせていた。同時にお紀有のほうに顔を向ける。
「しっ、静かに」
色吉が言った。
「え?」
いや、騒いでいたのはあんたがたでしょうに。
色吉がここに来ると、留緒がすでにいたということだった。
「留緒ちゃん、こんな遅くに娘ひとりでなにやってる」
「だって、色吉さん一人じゃ、お紀有ちゃんとあいびきみたいになっちゃうじゃない」
「なに言ってんだ、こいつは真面目なお上の御用なんだぜ」
「色吉さんが真面目なのは知ってるけど、世間じゃ岡っ引なんて、なかなか信じちゃくれないでしょうからね、色吉さんには悪いけど。お紀有ちゃんにへんな噂でもたったら、あたしの立つ瀬がない」
「う……」
色吉は言葉につまった。世間の目は確かにその通りだ。だがだからといってこんな小娘に言い負かされているわけにはいかない。「あいかわらず大人みたいなもの言いしやがって。そもそも、お紀有さんに会うのはだれにも内緒なんだから、世間の噂なんざたちゃしねえだろう」
「うーん、そりゃそうかもしれないけど……」
「だいたい理縫ちゃんの子守りはどうなったんでい。まさか連れてきちゃいねえだろうな」
色吉は留緒の背後に目をすかした。
「まさか、理縫ちゃんは今日は父と寝る! って言い張って、ご隠居さまと一緒に寝てるよ。だからあたしも安心してここん来たってわけさ」
「なにい? どうせおめえ、悪知恵を巡らせて理縫ちゃんをそう仕向けたんだろう」
「ちょっと、なに、悪知恵だの巡らすだの、人聞きの悪いこと言わないでよ」
「おおかた理縫ちゃんに幽霊話のふたつみっつでもして怖がらしてご隠居んとこに行くように仕向けたんだろう」
「う……」
留緒は言いよどみ、しかしすぐに、「ひどい、色吉さん、きらい!」
なんでそうなるんだよ、と色吉が苦い顔をしたときに裏口の木戸が開いて、お紀有が声をかけてきたのだ。「留緒ちゃん?」
それまで小声で話していた色吉の耳には、その声がものすごく大きく響いたので慌ててしまった、ということだった。
色吉は小半刻ばかりもお紀有から話を聞きだすと、礼を言って、留緒を送っていくために八丁堀のほうに帰っていった。岡っ引とお紀有が話を始めるとすぐにうとうとしはじめ、なんど起こしてもぐにゃぐにゃとへたり込むので仕方なく色吉が背負っていたのだ。
岡っ引が熱心に話を聞いてくれているときはうれしかった。自分がなにかの、誰かの役に立っていると感じられたからだ。しかし、「まったく、このがきはなにしに来やがったんでい」とぶつぶつ言いながら留緒をおぶったまま歩いていく色吉のうしろ姿を見ると、お紀有はまたしてもなんとなく面白くなくなってしまうのだった。




