三
夕六つ、たそがれどき。暗くなりかかる店のまえを掃除していたとき、声をかけられた。
「お紀有ちゃん」
振り返ると、留緒だった。あいかわらずにこにこしている。お紀有はそっと店のなかをうかがった。こんなところを的助に見られでもしたら、またちくちくと言われてしまう。
いいなあ、留緒ちゃんは気楽そうで。
留緒のことは好きだし、いまでも仲良しのつもりだったが、自分がいろいろと苦労しているのにこう能天気な様子を見せられると、ちょっと憎らしくもあり、うっとうしくもある。
幸い的助は奥にでもいるのか、おもてからは見えないが、お紀有は用心して店の戸の開いたところからは見えない位置まで移動した。
「どうしたの。あたし、掃除しないと叱られちゃう」
ついつっけんどんに言ってしまった。言ってしまってから、すぐに後悔した。
「あややー、ごめんねぇ、でもさっきの話をしたら、色吉さんがじかにお紀有ちゃんの話を聞きたい、って言うもんだから」
しかし留緒があくまで明るく応じてくれたのでお紀有は救われる思いだった。そしてそのときはじめて、留緒のそばに男が立っていることに気がついた。
お紀有の驚いたことに、これが目鼻立ちの整ったいい男だった。通りの薄暗くなりつつあるなかでもはっきりとそれがわかった。
「忙しいとこ、すみません」
お紀有から見たらりっぱな大人なのに、色吉と呼ばれたそのいい男は小娘に対してていねいに頭をさげた。
「色吉さんはね、うちの旦那につかえる小者なんだ」
岡っ引は、下っ引だの手先だの、あるいは小者などとも呼ばれた。小者は読んで字のごとく見くだした呼びかただ。
「ちぇ、格好つかねえなあ。御用聞きと呼んでくんな。しかし留緒ちゃんはあいかわらず耳年増だな」
「やだ、乙女に向かって年増とか言わないで」
「耳年増のくせに、耳年増って言い回しは知らねえのか」
「知ってるけどさあ、やっぱり気になるじゃない」
仲良さげに会話するふたりに、お紀有はなんだか腹が立ってきた。
「あの、聞きたい話ってなんですか」
さっきよりもきつい言いかたになってしまったが、今度は気にしない。
「ああ、こいつはすまねえ……申し訳ない」
色吉が頭をさげる。本当にすまないという顔をするものだから、お紀有はまたしても自分が悪いような気分になった。
「どっかでゆっくり話したいんで。無理は承知のうえでやすが、なんとか、ひまをつくれねえもんでしょうか」
夕刻の忙しいときだから、さすがにもう戻らないわけにはいかない。
「今晩、四つくらいに裏で。戸締りするのはあたしだから大丈夫」
ひと息にそう言って、軽く頭をさげ、お紀有は足早にその場をあとにした。
店に戻ると、うしろから声がかかった。
「また仕事もせずにおしゃべりをしてたな。誰だよ、あいつ」
突然だった。お紀有は驚いて体がすくんでしまった。おそるおそる振り返ると、的助があざけるような、怒ったような、これから獲物をいたぶるのが楽しみでうれしくてしょうがないというような、なんともいえない表情を浮かべていた。
「あのひとは御用聞きで……その……道を訊かれていたんです」
「へえ、なんて訊かれてたんだ」
「ええと、あの、天狗高下駄伊勢家はどこかって」
とっさに浮かんだ商店の名を言ってしまう。
「天狗高下駄伊勢家なんざ、すぐそこの、ここらでいっとう大きい店じゃないか。岡っ引が知らないわけないだろ」
「え……でも、だって、あたしにはわかりません。訊かれただけですから」
的助はうれしそうに顔をゆがめた。
「でもそばにさっきおまえが一緒にいた娘もいたよな。どういうことなんだよ。おしゃべりしてたんだろう。ちゃんと見てたんだからな」
これをお紀有は気味悪く思い、と同時に、さすがに腹が立った。
「丁稚さん、ずっとあたしを見張ってたんですか。他にやることないの。ずいぶん暇なんですね、うらやましい――」
的助の拳固がお紀有の頭に振りおろされた。ごつん、と鈍い音がして、お紀有はしばらく、なにが起こったのかわからなかった。
「なまいき言ってんじゃねえ、おれは忙しいんだよ、おまえといっしょにするな」
ぶたれたところがずきずきと痛くなってきて涙がにじんできた。
「ちぇ、女は泣けばいいと思ってやがるからいやだよ」
そこへ手代の中吉がやってきた。小太りだが、動作ははしっこい。
「なにやってんだ、的吉」
「ええ、中吉さん、こいつが外を掃除もせずに友達の、しかも野郎とおしゃべりして怠けてやがったんで注意をしてやったところです」
いったいこの中吉といい、衣坂屋の手代は皆ずいぶんと年が寄っている。番頭の友吉は若い――といっても二十も半ば過ぎ、三十も近い――のだが、大吉、中吉、小吉といる手代は四十半ばから五十くらいで、あとから入った友吉に抜かされ、それでも飄飄と気にする様子がない。
「そうか、まあ怪我はさせるなよ」
中吉はそのまま行ってしまった。通りがかりに声をかけただけなのだった。だれもが忙しく立ち回っている時間だ。
お紀有も涙をふきながら立ち去った。的吉はにらむだけで、なにも言ってこなかった。
「丁稚」
背後からかかった声に、なんでい……と振り返るとお内儀さんだった。的吉はあわてて表情を取り繕った。
「なんでございましょう」
「あの下女が、怠けていたのかえ」
「へえ、下女というか、仲働きですが、外で掃除もせずに男と話しておりまして。岡っ引に道を訊かれたなどと申しておりましたが、その男と一緒にいた娘と、昼間も使いの帰りにおしゃべりをしていまして怠けておりました。わたしはそれを見ておりますから、本当は怠けていたのだろう、よくないことだと指導をしたのでございます」
お内儀さんはうなずきながら聞いていた。
「じゃあその岡っ引はあの下女と知りあいということなのかねえ」
「さあ、下女というか仲働きですが、そこまではわたしにはわかりかねますが……」




