六
翌日また朝早くから羽生邸を訪ねた。歩兵衛は無事在宅していた。
「特に変わったことは」
「なにもないよ。むしろ色吉殿になにかないか心配しておったのだ」
挨拶もそこそこに色吉が尋ねると、歩兵衛はそう答えた。
「あっしのほうはなんともねえです」
「ふむ。多大有がついておったので遠慮しおったかな」
え、と色吉は絶句した。少し考えてすぐに合点がいった。川べりの広場で別れたと思っていたが、旦那は自分のあとをつけていたのた。気を遣ってもらったのはありがたい。ありがたいが、ということはわざと左右に歩いたり突然駆けだしたり、いきなり振り返ったり、振り返ってそのまま道を駆けもどったり、通りを右往左往した行動をすべて見ていたのか。色吉は顔が熱くなった。
「さて、じゃあこれから太助を訪ねるとしようかの。昨晩あのあと帰ったとしたらまだ寝ておるであろう」
神田下白壁町の長屋に着いたときも、まだ六つを過ぎたばかりだった。歩兵衛の予想通り太助は寝ていた。戸を開けると色吉は勝手にあがりこんだ。
「太助さん、起きてください」
まず声をかけるが、まったく起きる気配がないので軽くゆすってみる。
「太助、おいこら、起きやがれ」
声を大きくして揺さぶってみたが、ぐうぐうといびきとも寝息ともつかぬ音を立てながら煎餅布団を抱え込んでごろりと向こうをむいてしまっただけだった。
どうしやしょう、出直しやすか、という顔で歩兵衛を見ると、
「多大有にやらせてみなさい」と言う。
同心が土間から畳の間にあがり、太助の横に座った。色吉は邪魔にならないよう入れ替わりに土間に降りた。
羽生は太助の頭を鷲づかみにする。
「い、痛たタタっ……! たっ!」
羽生が手を離すと、太助はほっと息をつき、そしてすぐに驚いた。
「うわ、おめえは誰だなにしやがるお縄にすんぞ」
言いながら上体を起こしつつずりずりと狭い部屋のなかを後退しようとする。慌てすぎて羽生の着流し羽織も目に入っていないようだ。
「ひっ、ひっ、ひえっ、い、命だきゃあ、た、たす、お、おた、お助けてくんな」
太助が唐突におびえた声を出した。羽生の白磁の顔が目に入ってしまったのだろう。かわいそうに、無理もねえ。色吉は太助につい同情してしまった。おれだって未だに、旦那の顔を見て、そいつが思ってもいないときだったりすると腰を抜かしそうになるんだから。
「太助さん、慌てんな。よう見や、羽生の旦那だ。おめさん、供につきたがってたじゃあねえか」
「な、なに……? あっ、おめえは色吉! ちくしょう、しけえしに来やがったな」
「だから落ち着けって。落ち着いて話をしようじゃねえか」
「けっ、おいら一人に三人がかりで襲ってくるようなやつと話ができるけえ」
「おめえそれ冗談のつもりかこの野郎!」
さすがに色吉も腹が立って大きな声を出し、拳を振りあげた。
「まあまあ、ふたりとも落ち着きなさい。色吉殿、おぬしも自分で言ったんだから落ち着かれよ」
歩兵衛が割って入った。
「羽生の旦那たぁ気づかず、こいつぁ失礼を申しやした」
太助が土下座して言った。
「よいよい。でもな、いまは羽生の旦那はこの多大有のほうじゃ。わしは隠居。以後よろしく頼むぞ」
歩兵衛はにこにこと言った。
「へ、へぇ」
太助は薄気味悪そうに、歩兵衛と並んで座っている羽生を横目で見あげた。
「おぬしの父親にも申したことだが、どうも伝わっていなかったようだの」歩兵衛が厳しい顔つきになる。「だからわしから直接申しておくことにした」
歩兵衛は昨夜に太助の父親にした説明を繰り返した。
「おぬしはまだ十手を預かって日が浅い。多大有もまだ慣れぬ身。未熟同士では話が見えなくなる。まずは十手持ちとして修業をお積みなさい。父上もそう望んでおられる。色吉殿は年は若いが評判の腕利きだ。なのでわしのほうから無理を言って多大有の供に頼んだのである。というわけで、おぬしが色吉殿を恨みに思うのは筋違いというものである。ましてや数を頼んで襲うなど、言語道断である。もしまだなにかあるようならば、こちらの羽生家当主に言いなさい」
と、歩兵衛は多大有を指した。
太助は羽生のほうをなるべく向かないようにしていたが、そのときは見ないわけにはいかなかった。ちょうど羽生が滑らかな気味の悪い動きでうなずいたので、また慌てて目をそらした。もちろん太助が多大有を見るのは初めてではないだろう。市中廻りをしているのを目撃していることは何度もあるはずだ。しかし羽生は遠目に見てもその動き方からしてなかなか気味が悪いのだが、近くで見るといっそう不気味でかなり怖いのだ。
「とんでもねえ、そもそもおいらはこの野郎を……色吉さんを襲おうなんざ、これっぽっちも考えちゃいねえんで。ただ、おいらは親父から子分どもを引き継いだんでやすが、こいつらが、あんな若造が旦那のお供につくのはおかしいだろう、なにやら不正でもしたんだろう、話を聞け、話を聞いてみろ、とあんまり急き立てるもんだから」
手下のせいにするとは情けないやつだ、と色吉はあきれた。
「子分を抑えるのも親分の仕事であろうが」歩兵衛が言った。
「それぁそうなんでやすが、なにしろあいつらのほうが年は食ってるし、御用のほうもおいらなんぞより詳しいしなにかと慣れてやがるもんで、ついなかなか逆らうこともできゃあせん」
「色吉殿に礫を投げたり川に突き落としたりも子分たちの考えかの」
「待ってくんねえ、です、なんですかいそりゃあ、おいらあ昨日の晩のことだとばかり。と、ありゃあおとついか。それだって、あれは行きがかり上喧嘩になりそうになったってだけで、はなから襲おうと考えたわけじゃあねえんで」
「おぬしらと別れたのち、昌平橋の手前へんで色吉殿は礫に襲われたのよ。知らぬと申すか」
「とんでもねえ、初めて聞いた。おいらじゃあねえです」
「ふむ、ならば手下のうちの誰かかの。色吉殿が行ったあと、ぬしらはどうした」
「へえ、おいらたちもそのまま散開しやしたが。ご承知の通り、みんなあのあたりに住んじゃあいるが、それなりにゃあ散らばってるんで。でも、色吉のを襲うなぞあいつらじゃあありやせんぜ」
ほう、と色吉は太助をやや見直した。今度はちゃんと手下をかばったか。
「どいつもこいつも、おいらの背中の陰からしか吠えられねえような連中で、そんな気のきいたやつぁいやせん」
「おめえそれでも親分か」
思わず色吉は横から口を出してしまった。
「ちっ、うるせえな、なんでえ、正直に話したら話したで文句を言いやがって」
「まあ待ちなさい、色吉殿も落ち着いて。では太助殿は昨日の昼間から夕方にかけてはどうされた」
「ちっ、おいらなにか疑ってるんですかい、いくら旦那……ご隠居といいなんでそんなこと教えなけりゃならないんでぃ」
そのとき顔をまっすぐまえに向けていた羽生が、つるりと太助に顔を向けて見据えた。いや、多大有の目は外からは見えないので本当のところはわからないが(そもそも目があるかどうかもわからない)、そのように見えた。
「へ、へい、昨日はいちんち、麻布の田尻様んとこで、その、お勤めをしていやして」
「おめえの勤めってなあ縄張りから遠く離れた中間部屋で賽の目を見張ってることなのかよ、じゃあ旦那の供なんざ目でもねえな」
またもや色吉がつい言ってしまったが、太助はこんどは嫌な顔をして見返すだけだった。
「一日中おったのか」歩兵衛が訊いた。
「へえ、朝から晩まで」
「途中で出たりはせんかったか」
「へい、もう丸一ん日」
「手下たちはどこでなにをしていたか、知っておるか」
「卒太と根吉は一緒でしたが、竹五郎のじいさんは、さあ、わかりやせん」
「竹五郎は一緒ではなかったのじゃな?」
「へえ、あのじいさんはおいらの、その、お勤めをよく思ってねえようなんで」
そのあと卒太と根吉のねぐらも回ったが、二人とも太助の言ったことを裏付けた。賭場にいたのは夜までどころか朝帰りだった、ということまでわかった。
ふたりとも先代の簾蔵からのつきあいなので、歩兵衛に対しては素直だった。多大有については、親分同様に近くで見てその異様さにひるんでいるようだった。
「最後に竹五郎のところを回ってみるかの。あいつはどうも、昔から苦手なんだが」
「へえ、ご隠居にも苦手なんてありやすか。おとなしそうなお人でやしたが」
「なにしろ堅物でな、冗談が通じん」
竹五郎の住処は太助のより土手よりの須田町へんだった。まだ早いかとも思ったが、「なに、あいつならもう起きとるだろう」と歩兵衛は言い、訪ねることにした。太助たち三人はたたき起こしたのだからずいぶんと扱いが違うが、それも竹五郎が妻帯者だからだった。
「これは旦那、ではなくご隠居、お久しぶりでございます」
訪ねていくと、竹五郎が歩兵衛に言った。そして多大有に丁寧に頭をさげた。「これは羽生の旦那、ずいぶんとご挨拶が遅れて申し訳ないことで。太助の子分、竹五郎と申します、以後お見知りおきを」
はじめのひと目では驚き、気味悪く思ったようだったが、すぐにその様子を押し隠したのは年の功か。
それから色吉に向かって、「昨日は……ではなくおとついか、失礼したな」とうなずいてみせると、歩兵衛に向き直った。「狭いとこなんで、どっか外でいいでやすか」
部屋のなかには衝立があって、その向こうには誰かいる気配だ。
「お尽さんはどうかされたのかの」
「へえ、ちょいと風邪で臥せっておりやして、旦那……や、ご隠居たちに移しちゃああれなんで」
竹五郎は戸を閉めると先に立って歩きだした。
「昨日は一ん日、お尽の看病でやした。医者の膳庵先生んとこに薬を取りにいったり、飯を食いに出たほかは、長屋にずっと、へえ」
柳原の土提まで歩いてきて、川を見ながら竹五郎が話し始めた。「おとついの晩は、あれはあっしの家のまえあたりでなにやら声がしたんで出てみたんでやす。そしたら太助の親分が色吉の親分殿にからんでなすった、というようなわけで。色吉親分が引きあげなすったあとは、みんな自分のねぐらのほうへ歩いていきやしたがねえ。へえ、あっしもしめえまで見届けたわけじゃあござんせんが、こっちのほうへ引き返すやつぁいなかったと思いやすよ、へえ」
竹五郎は女房を看るから、と挨拶も早々に戻っていった。歩兵衛と色吉は羽生邸に帰り、多大有は出勤した。
「どうじゃろう、今日会ったなかに、色吉殿を襲ったのがおる、と思うか」
歩兵衛が言った。歩兵衛の部屋で、ふたりのまえには留緒の淹れた茶が置いてある。
「どうでやしょう、簾蔵の元親分と下っ引の竹五郎は年寄りだし、他二人の手下、卒太と根吉はどっちもそろって腰巾着でそんな度胸はねえでしょうし、親分の与太郎は――」
「親分は与太助じゃろう」
「そうでやした、与太助は馬鹿。まあとにかく、どいつもこいつも間尺に会わねえ」
「ふむ、しかし簾蔵も竹五郎も若いころは強面で鳴らしたもんじゃがの。まあここは色吉殿の見たてどおりとするとやはり、他の恨みの筋かの」
「へえ、あっしも自分じゃあ思いつかねえが、こんな商売でやすから、どっかで逆恨みを買っちまってるかもしれねえです」




