九
その晩。九ツ頃に色吉は青山百人町の広い通りを歩いていた。曇り空で月明かりには乏しいが、色吉は用心して提灯の灯りを消していた。吐く息が白い。
わき道から出てきた者があり、辻斬りが出たかと、色吉は飛びすさって身構えた。
「おお、この小者」
「ここにおったか」
「今度は逃がさんぞ」
三人並んで近づいてきて、長い棒を振り回す。一昨日の楢藤様のところの中間だった。横一列で壁を作り、それぞれ打ち下ろす、なぎ払う、すくい上げる、の動作で色吉を打ち据えようとする。色吉はくるりと来た方に向き直り、一目散に逃げ出した。
「おお、また逃げよる」
「待て、小者」
「待たぬと打つぞ」
「おお、お前は何奴じゃ」
「小者の助太刀か」
「どかぬとお前も打つぞ」
背後で聞こえていた声の様子が変わったので振り返ると、三人組のまえに立ちはだかるようにそいつが立っていた。色吉には背中を見せているようだ。と思いきやそいつはすうっと滑るように色吉に近づいて来た。こちらに向かって来るからにはこちらを向いているのだろうか? 聞いていた通り、顔が頭巾に覆われているため表情が全く見えない。
「おっ逃げよるか」
「待たぬか」
「ついでにおまえも懲らしめてやる」
……と、辻斬りは突然立ち止まると、振り向きもせず三人組の中間に斬りつけた。不思議なことに、色吉の方に向かってきているとしたら右手に持っていた刀で、しかし持ち換えもせず三人組に斬りかかった様子は、左手に刀を持っているように見えた。色吉は体の両面に――正面と背中側の両方に――顔がついている、両面人間のような化け物を思い浮かべてぞっとした。
「うわあ」
「ぎゃあ」
「やられた」
三人組はあっさりやられたようだった。そろって地面に転がっている。辻斬りはそのまま振り返りもしないまま色吉のほうに向かって来た。やはり両面の化け物だ。色吉はなんともいえない不気味さに恐怖で立ちすくんだ。そのとき色吉のうしろから声がした。
「待て。拙者が相手をいたす」
誰だろう。色吉の目は化け物に吸い寄せられていて、振り返って確かめることができない。
「色吉殿はさがっておられよ」
そう言って色吉のまえに出たのは奥州左馬之介だった。化け物と色吉のあいだ、どちらからも二間ばかり離れたところに立つと刀を抜いた。
「イテテ……」
小さな声だったが、たしかにそう聞こえた。その情けない言葉が左馬之介から出たものとは信じ難かったが、見ると構えが変だ。刀の切っ先がどんどんさがって下段の構えのようになってしまった。
奥州左馬之介は後悔していた。
高に追い立てられるように家を出て、この屋敷町までやって来て、内心今日は出ないことを祈りつつ歩いた。軽くひと回りしたら帰ろう。まだ本調子ではないと言えば、高もゆるしてくれるだろう。そう考えながら歩いていると、道の先のほうが騒がしいことに気づいた。
誰かがこちらに走ってくる。若い男のようだ。と、それは今朝自分を訪ねてきた色吉という岡っ引だということに気づいた。その色吉の後ろから三人の大男がなにやら長い得物を振り回しながらよたよたと歩いているのが見えた。色吉はあれから逃げているのだろうか。そのとき三人組と色吉の間に一つの影が滑ってきて割り込んだ。
「おお、お前は何奴じゃ」
と声があがった。
三人組の様子のおかしいのに気づいてか、色吉が立ち止まって振り返る。このとき左馬之介は色吉と目があったような気がした。と思う間に三人組は倒されて地べたに転がっていた。「うわあ」だの「ぎゃあ」だの騒々しいところをみると、命に別状はないようだ。
三人組を倒した影は、そのまま色吉に向かって来る。色吉は立ちすくんでいる。左馬之介は迷った。このまま逃げるか。しかし色吉は自分に気がついたかもしれない。見捨てたことが露見したら武士の面目がない。
ここまで考えて左馬之介は自分に愕然とした。逃げたことが露見するのが武士の面目に関わるのではない。逃げることが武士の名誉を傷つけるのだ。左馬之介は恥じた。辻斬りに臆した自分を恥じ、逃げようと考えたことを恥じ、それが露見したらなどと考えたことを恥じた。
「待て。拙者が相手をいたす」
こう言ったとき、前にやられた傷にズキンと痛みが走った。思わずうめき声が漏れそうになるのをなんとかこらえる。やはり逃げればよかったと後悔したが、もう遅い。色吉にさがっているように言い、影に近づいていく。近づくごとに、火が広がるように傷口の痛みが大きくなっていく。うめき声の漏れるのを、今度はこらえきれなかった。なんとか刀を構えたが、目が眩んできた。目のまえの影は、まさに影というにふさわしく、妙に平べったい。
それともこれは目が眩んでいるせいでそう見えているだけなのか。構えを保つことができず、剣先がどんどんさがっていく。もうよく見えないが、影が刀を振りかぶったようだ。
自分も剣先を上げて構え直さねばならぬ。左馬之介が覚えているのはここまでだった。
下段に構えた左馬之介に対し、化け物が刀を振りあげた。左馬之介はどうするのだろう。化け物の刀が振りおろされる。やられる、と思ったとき、左馬之介が地面に倒れるように体を伏せて、化け物の刀が空を切った。うまくよけた、と色吉は安堵したが、左馬之介は地べたに這ったまま動かない。倒れるようによけたのではなく、本当に倒れたようだ。化け物はまた刀を振りかぶっている。いけねえ。何とかしなくちゃ。とは思うものの侍同士、あるいは侍と化け物の斬り合いに割って入るほどの腕も度胸もない。足もがたがた震えて立っているのがやっとのくらいだから、うまく動けるかどうか分からない。いや、足がすくんで、もう逃げることもままならなかった先ほどからその場に固定されてしまっているのだから、助太刀などもとより思いも寄らぬことだった。そう考えている間にも、刀は切っ先が弧を描いて振りおろされていく。色吉の目にはゆっくりと降りていくように映った。とうとう倒れている左馬之介を両断するか、というそのとき、キン、という音とともに火花が散り、化け物の刀は宙に舞っていた。くるくると回って向こうの方に落ちていき、ゴンという鈍い音がしたと思うと「ぎゃあ」、「ぬぬぬ、またやられた」という声があがった。
化け物が再び色吉の方に向かって滑ってくる。とうとう色吉は腰を落としてへたり込んだ。と、今度は一転、色吉から遠ざかっていく。ただし身を翻しもせず、すなわち体の向きを全く変えずそのまま遠ざかっていったので、色吉はまた怖くなった。しかしいくらも行かないうちに、化け物はへなへなと倒れこんだ。
同時に。
「うっ」という押し殺した悲鳴ともつかない声がした。化け物の声か、とも思ったが、もっと遠くのほうで発せられたように色吉には感ぜられた。
ほぼ同時に。
「うっ」という押し殺した悲鳴ともつかない声が、つい今のとは離れたところから聞こえた。
そのすぐあと。
すぐ近くに、どさっ、どさっと荷物でも投げ出したような音がした。
手応えが消えた――
玉太郎はとっさには事態が飲みこめなかったが、すぐに何者かが糸を切ったと理解した。だがそのほんの一瞬が、あとから思えば命取りだったのだ。手応えが消えたそのとき、すぐに糸を手放すべきだった。
しかし手放さなかった玉太郎は、その糸に引かれて潜んでいた塀のうえから落下した。
「うっ」
こごもった声が漏れた。逃げなければ、と本能が告げたが、次の瞬間にはどこかを強か打たれたかそのまま意識が遠のいた。
玉太郎の弟、玉次郎も通りの反対側の塀にてまったく同じ体験をしたのだが、それは玉太郎のそれのわずかひと瞬きのあとのことだった。
いつ立ったのか、倒れている化け物の横で影が見おろしていた。色吉はまた縮み上がったが、よく見るとそれは羽生多大有だった。
「旦那」
急に元気の出てきた色吉はすぐに立ち上がり、羽生のそばに駆け寄った。羽生は化け物を見おろしたまま動かない。その背中に半分隠れるようにして、色吉も化け物を見おろした。化け物は地べたに伸びている。ピクリとも動かないので、大胆になった色吉は近づいて脇にしゃがみ込んだ。懐から十手を取り出し、その先でつついてみる。
グラグラと動いて、生きている気配がしない。
「ひえっ、死んでる」
思わずのけぞって尻餅をついた。背中が結構な勢いで羽生の足に当たってしまったと思ったらうしろでドスンと地響きがした。振り返ると今度は羽生が仰向けに倒れている。あわててその頭のほうへ飛びつくと、肩を揺すった。
「旦那、羽生の旦那」
こちらは目方があるせいかゆさぶっても動かないが、生きている気配のないのは化け物といっしょだった。しかし羽生のこの状態については色吉も見当がついた。
「発条ぎれか」
実際に目にするのは初めてであったが、歩兵衛から話だけは聞いていた。頼りにすべき羽生の旦那がこれで、つぎになにをすればよいか色吉は途方に暮れかけたが、改めて考えてみると普段から旦那は特に頼りになるわけではなかったことに気がついた。色吉は気を取り直して、ひとつ大きく息を吸って吐くと立ちあがった。見慣れぬ化け物らしきが登場したおかげでだいぶ取り乱してしまったが、いつもは人から頼られる側である。発条ぎれの絡繰人形は放っておき、化け物のほうに戻ると、気をしっかり持って調べにかかる。
死んでいるようだが、化け物のことだからいつ生き返るか分からないので、まず得物を取り上げることにした。刀は折れていたが、まだ半分ほど残っていたので危険に見えたのだ。刀を手からとりあげようとして、色吉は目を丸くした。手だと思ったものは手鞠くらいの球で、その中心を通るように刀の柄が差してある。鍔を持ってひっぱったが、しっかりと固められて抜けない。あきらめて袖をめくっていくと、腕は丸太で、関節を糸で繋ぎ留めてあった。「こいつぁ」と思わずうめき声が出た。両国の人形芝居小屋で見た操り人形ではないか。さらに体を探ると、ほとんど目に見えないくらい細く、丈夫な糸が体のあちこちについていた。糸はいずれも三尺から五尺くらいの長さで切れていた。
ふいと横に目をやると、少し離れたところに、なにやら盛りあがりが見える。はじめ左馬之介かと見たが、倒れたのはもっと向こうのはずだった。さては化け物の仲間か、と思ってしまった。思ってしまったことを悔いたが、羽生の旦那が文字通り木偶人形と化してしまったいまは自分が動くしかねえ、と自身を叱咤し、震える足で用心しいしい近づいた。
その盛りあがりは人間だった、それも二人だ。うまいことに仰向けになっていたので、星あかりに顔がうっすらと浮かびあがっていたのだ。
「こいつは……」
あの見世物小屋の口上男だった。玉太郎か、玉次郎か。ということは当然、もう一人倒れているのは兄弟のもう一方であろう。どちらも息はある。気絶しているだけのようだ。
「ふむ」
人だとわかればもう怖くはない。色吉は捕縄でふたりを縛りあげた。
それから左馬之介に駆け寄り息のあることを確認した。こちらも気を失っているだけだ。
つぎにさらに離れたところに倒れている楢藤様のところの中間三人組に近寄ろうとした。するとそれまで小さな声ではあるが「うぬぬ……」だの「不覚……」だのぶつぶつ言っていたのがぴたりと止んだ。色吉の足音を化け物が留めを刺しに来たとでも勘違いして、死んだふりをしているのだろう。この様子ならば介抱など不要だろう。
そのとき規則正しく「ほっ」「ほっ」というかけ声と、ガラガラという音が聞こえてきた。またなにか面倒か……と声のするほうを見ると、駕籠がやってくる。後方の持ち手はさらに大八車を引いていて、それがガラガラ音を立てていたのだ。色吉は身構えたが、駕籠が近づいてくると厳しい顔つきがゆるみ、むしろうれしそうな表情になった。小走りに近づいていくと、大八を引いた駕籠も止まった。
「御隠居」
駕籠がおろされるのも待ちかねて声をかける。御簾がはぐられ、歩兵衛の顔を見ると心底安心した。駕籠は歩兵衛が遠出のときに使う専用のものだった。
「発条ぎれのようだの。大八に乗せてやってくれ」
二人の駕籠者に手伝ってもらい、彼らの引いてきた大八になんとか多大有を乗せる。三十貫近くあるため一人ではとても無理であったろう。二人の駕籠者は歩兵衛から「龍」と「樽」と呼ばれていて、普段は辻駕籠をやっているようだが、要請があると歩兵衛の専用駕籠を担ぐようだ。二人とも名に似合わず、色吉よりも小柄なくらいだが、引き締まった体をしている。
羽生を乗せた大八を色吉が引いてみたが、よたよたとどうにも危なっかしい。見かねた歩兵衛の命により、大八に駕籠を乗せ、歩兵衛も乗り、龍と樽が左右を支えることにした。
羽生をムシロで覆い、そのうえに駕籠を乗せることになるが、歩兵衛は「かまわんからどんと乗っけときなさい」と乱暴なことを言った。多大有の体と駕籠を縄でしっかりと固定し、歩兵衛が駕籠の中に入った。大八を引くと、目方は駕籠と歩兵衛の分が増えていたものの、二人の駕籠者に支えられて、今度は楽に動いた。




