四: 聖職者 ユスティーファ 02
傷付き、血反吐をはく人々に、施しと言葉を捧げて回る。
そうして笑うのだ。いつか泣かなくて済む日が来るようにと。
だが彼女は思い知った。
――王女の庭 リリアナ・ガーデン
人のように手足を動かす木や、花弁を蠢かし人間を喰おうとする人喰い花を倒し進んでいくと、漂う朧火の数が急に増える。
ふわりと舞う光につられて顔を上げ、ユスティーファは呆然と口を開けた。
まず目に入るのは、幾つも並ぶ荘厳な白き柱。白石の土台に乗せられた複雑な意匠の柱は、等間隔に並び、二階部分を支えている。
二階からは普通の建物と似た構造だが、四階部分は三方向のみ壁があり、向かいの面は開放的に開かれていた。屋上部分はここから見えないが、鎖はそこから伸びているようである。
真白い石で作られた、繊細で雄大な神殿。王女の住居にふさわしい建物だ。
だがそれらよりも目を引くのは――庭園を覆う、幾本もの蔓、草花、そして正面の階段を流れる水。
――王女の聖なる力とハイロリアからの祝福が、この美しき庭園へと水を運ぶ。
遠くから見れば宙に浮かんでいるように壮大で、人々はその様から『王女の空中庭園』と呼んだ。
庭園に咲き誇る花々はとりとめもないが、唯一どの場所にも咲いているのは純白の百合。
暖かな朧火に、庭園全体が淡い陽光に包まれているようだった。
「リリアーヌ王女が生まれた時、国中が喜びに沸いた。今は朧火の森と呼ばれるこの場所も、王女の誕生を祝うように多くの百合の花々を咲かせたそうだよ。それにちなんで、王は娘にリリアーヌと名付けた。同時に、国の花も百合と定められたそうだ」
その美しい庭園の下、白き柱が並んでいる場所に、ひとりの老人が立っている。ユスティーファは目を瞬いた。
齢六十ほどだろうか。擦り切れた灰褐色のローブを纏っており、整えられた髪は落ち着いた銀色。穏やかな表情で庭園を見上げており、敵意は見られなかった。
「もし、旅の御仁。水の城では見掛けなかったが、貴方もこのアクリアルを滅そうと思って来た者の一人か?」
「そうさ。と言っても、もう何年も前のことだがねぇ…」
ユスティーファは眉根を寄せる。この老人は何を言っているのだろうか。水の亡国が現れてから、まだ一月半。たったそれだけの月日で世界は大混乱に陥っているのである。
それとなく老人の様子を窺うが、痴呆のようには思えない。だが老人を邪険にするのも憚られ、仕方なく話に付き合うことにする。
「リリアナ・ガーデンについて詳しいようにお見受けするが、研究者かなにかでしょうか」
「そういうお嬢さんは、聖職者のようだな」
「ええ。私は光の国オンドーラの聖職者、ユスティーファと申します。なにか困ったことがあれば、私に。…そうだ、人を見ませんでしたか? 私より薄手の青い服を着た、金髪の御方です」
はたと思いついて聞くと、老人は灰青の目を細めて頷く。
「ああ、見た、見た。十分ほど前にここを通っていったよ。あれは力の強い聖者だったな…」
「そうでしょう! あの御方はかの聖者アンドラステ。オンドーラにこの方ありと謳われる今代最も尊き聖者であります」
ユスティーファは誇らしげに微笑んで胸を張った。白い頬が薔薇のように紅潮する。だが変わらない老人の表情に気付き、アンドラステ様の名すら知らないのか、と少しむっとしてしまう。
「して、お嬢さんはこの庭園に入られるのかな」
「ええ。主を探さねばなりませんし、鎖を破壊するという使命もあります。御老人はどうなさるおつもりで?」
「私は…もうしばらく、ここで休んでいよう。お嬢さんには私の助けはいらないようだしな」
「私は聖者付きの聖職者。並大抵のことでは怯みませぬ。どうかご心配なきよう」
「ああ。でも気を付けなさい」
「お言葉痛み入る」
老人に頭を下げ、ユスティーファは庭園の階段に足をかけた。多少老人が心配だが、森を抜ける位の実力はあるのだろう。怪我をしている風にも見えないし、そう気にすることもあるまい。
柱に囲われた一階部分は普通の庭となっている。咲き乱れる色とりどりの花を眺めつつ、ユスティーファは階段を上がって二階へ急いだ。
踊り場から扉のない入り口をくぐろうとし、ふっと杖を構える。
『針は四を指し、加護をもたらす』
杖を彩る紋様が、詠唱に応え強く発光した。同時にユスティーファを包む半透明の揺らぎが現れ、部屋の奥から放たれた光条を防ぐ。
ユスティーファは防壁を展開したまま、『鐘が十の音を鳴らす時、魔の力は自らへと還る』と叫び、光条をそのまま跳ね返した。
自分の放った魔法を弾き返された異形の魔法使いは、胸を貫かれて吹き飛んだ。
魔法使いは壁にぶち当たり、そのまま動かなくなる。そろりと近寄って死んでいるのを確認し、ユスティーファは眉を顰めた。
ユスティーファへと光条を撃ったものは、体中から蔦のような触手を生やしているものの、まだ人間だった頃の名残がある。薄汚れた絹の服を身に着けていることからも、元は王女付きの侍女だったのだろうか。
――ならば何故魔の業を。
疑問に思いかけ、頭を振る。王の狂気は全てを反転させる。王女付きの聖職者も、“水”に溺れて魔に侵されたのだろう。
かつて王女は、ユスティーファと同じように人を助ける旅に出ていた。
外を巡れば聖女と崇められ、国へ帰れば王の手厚い保護が待っている。
ユスティーファには不思議でならない。何故彼女が自害したのか。
勿論彼女自身の事情もあっただろう。だがあまりにも曇りなき経歴を持つだけに、多くの研究所でも彼女の死についての議論が活発に交わされているのだ。
見た所この部屋は採取した薬草の保管庫だったようだ。一辺が十数メートルほどの正方形で、あちこちに四角い箱があり、台には液に漬けられた花の瓶が置かれていた。実験室も兼ねていたのかもしれない。
隣の部屋にも同じような異形が二体いたが、準備していた『五時』で相手の魔法を封じ、短剣で手早く心臓を穿った。
同じく保管庫の様相の部屋の奥に、三階へと続く階段を見つける。
「アンドラステ様は何処まで行ってしまわれたのか…」
ユスティーファは嘆きを怒りに変えつつ、闇に覆われた先を目指す。
扉の無い入り口をくぐると、そこは寝室のようだった。王女のために設えられた部屋だろう。と言っても中央に大きな寝台が置かれているのみで、殺風景なものだ。装飾品といえば、寝台脇にある小さな鳥籠くらいか。二階では中まで侵入していた草花もこの部屋にはない。ただ風に誘われた花びらが床にはらはらと落ちているだけだ。
急に強い風が吹き込み、ユスティーファは長い髪を押さえた。
硝子の嵌められていない窓から吹き込む風に、薄絹の天蓋がたなびいている。
先程までの殺伐さが嘘のような光景に、思わず虚を衝かれてしまう。
柔らかな絹が敷かれた寝台には、美しい純白のヴェールがぽつんと。
それはまるで、王女のたおやかな手にさらわれる日を待っているかのように、整然と風に揺れていた。
在りし日を、そのまま繊細に閉じ込めたかのような空間。
眼前をふわりと舞う花びらを捕まえ、ユスティーファは刹那目を閉じる。
だがすぐに目を開くと、踵を返して四階へと向かうのだった。
――リリアナ・ガーデン 王女の鳥
外から見ていた通り、四階はかなり開放的な造りの部屋であった。階段のすぐ横手は壁もなにもなく開かれている。そこからは広大な森が見え、遠くの方にはハイロリアの水の城が確認できた。
反対側の壁には、巨大な絵画が飾られている。描かれているのは金髪の女性の後ろ姿だ。歴史書では王女の髪色は褐色とされているため、王女ではないだろう。神に教えを請うための、祈りの間だったのだろうか。
そして――絵画の真下には、一羽の大きな鳥が翼を丸めて目を閉じていた。
「……」
見た目は普通の、だが人ほどの大きさもある鳥だ。その体の輪郭は曖昧で、色は淡く光る翡翠色。尋常な存在ではない。ユスティーファは息を詰めて鳥を見守った。だが鳥が目を覚ます気配はなく、彼女はほっと中央まで進み出る。
突然、翡翠色の鳥は金の目を見開いた。
「っ」
びくりと震え、慌てて足を止める。しかし鳥はユスティーファを認識すると、ふわりと大きな翼を動かした。
貴く、恐ろしく優美な翼が、花が綻ぶように開いていく。
大気から集った魔性の力が、薄緑色の翼を淡く彩った。金の瞳は鋭く尖り、翼から流れる光が背で円環をつくるように渦巻く。
最後に鳥はその場で羽ばたき――円環から流れる光を、嘴から放とうと大きく口を開くのだった。
「……なっ」
見る間に輝きを増す光に、だがユスティーファは反応出来ない。ただ魅入られたように鳥を見つめ、自身が焼き焦がされる時を待ち――
部屋中を覆い尽くす幾何学模様が、輝く円環の光を一瞬だけ打ち消す。
「――リトル・リリィ。王女が愛し、王女を愛し、最後まで傍にいた忠実なる鳥。 その精神は死してなお愛した王女を守ろうと必死なんだ」
呟くような、だがはっきりと通る声。
一瞬で相手の魔法を打ち消してみせた男は、するりと鳥の横を抜けるとユスティーファの隣へ来た。鳥の壮麗さにも負けない空気がユスティーファを包み込む。
冷静でありながら稚気に溢れた声を聞き、従者はほとんど涙目でその名を呼んだ。
「……アンドラステ様……! 今まで、一体、何をしておられたのですか!」
「ごめんごめん。先に屋上行って、鎖を観察して来た。でもあの紅の騎士が言うみたいに、守護者を倒さなきゃ駄目みたいだね」
「守護者とは、あの鳥でしょうか?」
腕まくりして杖を構えようとするユスティーファを宥め、アンドラステはにっこり微笑む。
「思いだして。ここはリリアナ・ガーデンだろう? なら、守護者としてふさわしい人物は?」
「……」
巨大な絵画を見上げ、ユスティーファは沈黙する。当然、毎日あの絵画に祈っていたであろう人物が、この庭園の守護者だ。
「では、この鳥は…」
「守護者の守護者ってとこかな。まぁ、リトル・リリィには悪いけど倒しちゃいましょう」
敬愛する主は右手を掲げ、すっと目を細めた。細い右手には聖印の描かれた手袋がはめられている。
アンドラステ様が来たならば、何があろうと負けることはない。
ユスティーファはどこか高揚する自分を感じながら、同じく自分の得物を掲げた。
――リトル・リリィ
開戦一番、アンドラステは『禁魔法領域』を発動させた。
禁魔法領域とは、聖法の中でもかなり上位の術だ。対象限定ではなく、範囲指定で領域内においての魔法の使用を禁ずる。ユスティーファも一応使えるが、彼女の場合は準備段階として数度詠唱を重ねなければならない。
深淵への干渉を阻害する術を受け、リトル・リリィは苦しげに羽を震わせた。
「ユスティーファ」
「はい、分かっております。我が主よ」
己が主の意図を汲み取り、ユスティーファはたおやかに両手を開いた。
『五を指す針は十の巡りを辿り、恣意の箱庭を紡ぎ上げる』
妙なる詠唱は大気を駆け、空間をなぞり、祈りの間を円形に切り取る。アンドラステが為した術を、ユスティーファは慎重に詠唱を重ねて引き取っていった。
『十一時を示す針の先を見よ。さすれば貴方の罪は洗い清められ、聖なる者のいざないを受けられるであろう』
紡いだ空間に力を通し、アンドラステの作った領域を外から包み込む。そうして出来た空間を壊さぬよう、ユスティーファはその場に片膝をついて杖を掲げ上げた。術の完成を確認したアンドラステが天高く右手を振り上げる。手袋の聖印が白く発光し、聖者の背に巨大な陣が出現した。
『それは月のことば』
相変わらず適当な詠唱だ。ユスティーファは半ば苦笑して白く光る陣を見上げた。
聖者と聖職者の違いは、その圧倒的な力の差。ハイロリアのような特殊な地の加護を受ける者を、私たちは聖者と呼ぶ。
主アンドラステはオンドーラの月の都、光の祝福受けし土地で生まれた。深淵はこの世の全てのものの源だが、時折染みつくように強くその痕跡を残すことがある。それは場所であったり、人であったりと様々だが、聖者は『強く影響を受けたものから影響を受けた』稀有な人間なのだ。
円の外周に沿っていにしえの言語が書かれ、中央に複雑な図形が描かれた陣は、鋭く発光したかと思うと巨大な光条を放った。下の階の異形が放ったものとは比べ物にならない大きさの光だ。
それもそのはず、アンドラステが放った光条の威力は相手の魔力に依存する。対象の魔力への反発として顕現する聖法であり、魔狩りの際の切り札と言えた。
その眩い光は美しきリトル・リリィを貫くだろうと思われ――だが翡翠の鳥は翼で身体を包み込む姿勢をとり、光条を迎え撃った。
「あ」
アンドラステの間の抜けた声。と同時に光条はリリィに衝突し、幾重も陣の残像を重ねた後消失する。重々しい沈黙が二人の間に落ちた。
「…あの鳥、体の構成自体“水”に依ってるんだね。魔法か物理攻撃じゃないと効かないね」
「…………冗談であって欲しい事実なのですが…………。しかし、構成要素が“水”とは。一度深淵に還った後、再びこの世に戻って来たのでしょうか」
死んだ者は深淵に戻るという聖職者らしい思想に、アンドラステは首を傾げつつ「多分違う」と言った。
「リトル・リリィは既に肉体を失くしたんだ。魂の中の“水”だけの存在。丁度ここの一階にいたお爺さんみたいにね」
「え」
聞き捨てならぬことを聞いた気がするが、リトル・リリィが首をもたげるのを見て慌てて主の方を仰ぐ。
「アンドラステ様。如何いたしましょう」
「君に荒事をさせるのも忍びないし、僕がやろう。ユスティーファはサポートをお願い」
「アンドラステ様!」
ユスティーファは悲鳴じみた叫びを上げるが、アンドラステは構わず刃渡り数十センチほどの剣を鞘から抜いた。
『月のことばは楔のことば』と短く詠唱し、リトル・リリィの動きを一瞬止める。
慌てたのはユスティーファだ。これでは日頃何の為に修行をしているのか分からない。膝をついた姿勢のままリトル・リリィに杖を向け、ユスティーファは必死に聖法を紡いだ。流石のアンドラステといえども、あの鳥と戦いながら高位の聖法を使うのは難しい。
『二時を指す針は五の巡りを辿り、森の小鳥に休息を囁く』
杖の紋様がぼうと浮かび上がり、書かれた文字が一文字ずつ剥がれ落ちる。薄く発光する文字はリトル・リリィの方へ飛び、巨大な翼へと次々纏わりついた。
文字を振り払い、空へ逃げようと鳥がもがく。それを許さずユスティーファは杖を握る力を更に強める。連動するように文字による拘束も強まり、リトル・リリィは哀れな鳴き声を上げた。
禁魔法領域を解いたため、間もなくリトル・リリィの円環は輝きを取り戻し始めた。
かの鳥の魔法の実力のほどは分からないが、生半可なものではないだろう。こちらは生身な分敵わないと思っていいはずだ。出来るだけ発動する前に倒したいところだ。それはアンドラステも同じらしく、右肘を引いた突きの構えで疾走する。気付いたリトル・リリィが小さな光の槍を放つが、アンドラステは頭を低く下げて難なく避けた。
鳥の懐まで到達し、アンドラステは柔らかい胴部分目がけて剣を突き出す。剣は正確にリリィの胸を貫いたが、リリィは悲鳴を上げて身を捩った。
「わっ」
反発が強まり、思わず杖から手を離してしまう。完全に文字の拘束から脱したリトル・リリィは、大きく翼をふるって凄まじい風を起こした。
「…………っ!」
体に叩きつけられる風に為す術もなく翻弄され、ユスティーファは階段の方へ吹き飛ばされてしまった。壁のない面から落ちそうになるが、身を逆方向へ捻って事なきを得る。
体中に走る痛みを無視し、上半身を起こして主の名を叫ぶが、アンドラステはいつもの表情で立ち上がる所だった。あちこち擦過傷が見られるが、大怪我を負っている様子はない。
ほっと胸を撫で下ろし、取り落とした杖を急いで拾う。
『紡ぎし聖なる句は魔を縛る鎖』
一度四散した文字は再び集い、リリィの翼を覆った。飛ぶ機会を失ったリリィはせめてもの抵抗と言わんばかりに、自分の首を狙う男の頭に鋭い嘴を突き出した。それをアンドラステは防壁で防ぎ、リリィに向かって剣を薙ぐ。
甲高い悲鳴が、部屋中に響き渡る。
首の根元を引き裂かれたリトル・リリィは、傷口からはらはらと翡翠の光粒を溢した。
王女の飼い鳥だった翡翠の鳥はゆっくりと力を失い、巨大な体を折って床へと崩れ落ちていく。遅れて床へ落ちる翼は、翡翠の光粒となりながら消えていった。
後に残るは、宝石のように美しく淡い緑の光だけ。
ユスティーファはすぐに主に走り寄り、体勢を崩した彼を助け起こした。
「…アンドラステ様、治療を」
「心配しなくていいよ。もう治したから」
言葉通り破れた服の隙間から傷のない肌が見え、ユスティーファはほっと息をついた。未だ固く杖を握る手を引き寄せられ、大きな手で優しく撫でられる。細かくついた擦り傷が撫でられる度に癒えていった。
「さて、屋上へ行こうか。手厚い歓迎が待ってると思うよ」
「貴方様が言うとふざけているように聞こえますが、行きましょう。鎖を破壊せねば」
アンドラステは微笑みながら、ユスティーファは真剣に頷きながら、共に屋上へ続く階段を見る。
リトル・リリィの残した翡翠の光が、二人を誘うようにその先へ飛んで行った。