馬を背負うて、カカオ酒を知る (後)
目的地であるクリオロ村に到着し、友好的に迎え入れられた。馬の亡骸を担いだ一行にはじめ村人たちはどよめきたったが、老マイアが事情を説明してとりなした。関羽は畏敬と喝采を以て迎えられ、希望するカカオ栽培の見学をすんなりと許された。関羽は平静かつ謹直に礼を述べたが、その内心ではしっかり小躍りしていることを、ユーリンはしっかり見抜いていた。
「平和だね。いつもこうありたい」
老マイアを自宅まで運びこみ、役目を終えたユーリンはくつろぎモードである。馬の亡骸を担いだ関羽入村の衝撃的な光景が、何かと厄災の遠因になりがちな自身の外見風貌を覆い隠すヴェールとなったことに開放感を覚えたためでもあるが、関羽が初対面の人々から純粋な喝采を浴びたことに対する満足感が心の大部分を占めていた。老マイア宅の客間の長椅子を寝台代わりに占拠し、関羽の膝を勝手に枕にして寝そべる。いまさらそれを拒絶する関羽でもない。
「そなたが娘っ子衆を騒がせぬのは新鮮であるな」
「ツラの良し悪しなんてうわっつらな事情なんて、本物の魅力の前にはかすむもんさ。エロヒムの繁華街でならしたエルフの伊達男がルシュイアープから連れてこられた短足ドワーフに女房と2人娘を親子丼温玉トッピングでおいしく召し上がられた滑稽話でも聞かせようか」
「いや、無用。それにしても野放図に過ぎる姿勢であるぞ」
「あれ? じゃ、おイトマしよか? 長居しちゃ悪いし」
「む」
関羽の逡巡を、ユーリンは嗅ぐように味わった。ユーリンは関羽の未練の在り処を見透かしている。老マイアの愛馬テオの亡骸は、マイア宅の庭にいまだ横たわっている。折をみて埋葬する予定である。
ユーリンは、心持ちだけは幼子の情緒を善導するかのように、けれど個人的な趣味に基づいて言葉で関羽をいじめた。
「村長さん宅に空き部屋あるらしいし、お借りできるように交渉してくるよ。任せて」
「むむむ」
そこへ老マイアが盆に茶器を乗せ、足を引きずりながら台所から戻ってきた。
「好きにくつろいどくれ。たいした礼もできないのが心苦しい限りだよ」
「村の皆さんにボクらをご紹介いただけただけで十分ですよ」「然様。目的地を同じくした道連れにて、いくらかの荷をお預かりした限り」
打ち解けた雰囲気で、茶の香りでのどを潤した。日に一度は2人きりで無為の時間を過ごすこと――ユーリンが関羽の旅の同道に際してつけた条件であるが、たまにはそこに客人を迎えるのも悪くない――と、老マイア宅の客人であるユーリンは老マイアという客人が茶席に着くことを内心で勝手に歓迎した。
関羽は茶をすすりながら、老マイアに尋ねた。
「マイア殿は、おひとりでいずこを訪れるご予定であったのですかな」
「……息子の命日に、墓参りで街まで、ね。その帰りさ」
関羽の表情を暗くさせたことにあわてた老マイアが、言葉を付け加えた。
「毎年のことなんだ、気を遣わないでおくれ。それに孫が街で健在だよ、一丁前に家庭もこさえた。これ以上を望んだら胸やけってもんだろう。……ただね、隠居してヒマをすると、親より先に逝った不忠者に小言を言いたくもなるのさ。いっそコレが楽しみなんだよ、毎年のね。つまり……」
老マイアはごく自然に明るい口調で、結論する。
「……道楽なんだ。危ないのは承知づくだったんだよ。でもテオを引き取ると決めたのは息子なんだ。そのあとすぐに村を出て街に行っちまったが。まだ仔馬だったテオが息子のまわりを楽しそうに走り回っていたのを、アタシだけはまだよく覚えているんだ。いまでも蹄の音が聞こえてくる気がするくらいにね……だからテオをのけ者にするわけにもいかない。家族だからね」
語る老マイアの様子に悲観はない。すでに遠く去った過去を、ただ正しく見つめている。息子の墓参りを道楽とする老マイアの解釈を、関羽は懸念無く首肯できた。
「道楽ですか。なれば納得の事情ですな」
「ウンチョウさん、アンタ、若いのに年寄りの意気がわかるんだね。村の若い衆は顔をしかめたもんだが」
老マイアは満足そうに破顔した。関羽もそれにあわせて、少し笑った。
ユーリンが意外そうに口をはさむ。
「へぇ。ウンチョーてちゃんと歳をとれてたんだ。よかったね、おじいちゃん」
「ややこしいことをここで申すな。……マイア殿、ご愛馬の埋葬地に希望はおありか? 日はまだ明るい。儂の手がある今日の内に墓穴だけでも、と思いますが」
関羽が本題を切り出した。関羽の関心が始終、馬のみに向けられていることを知っているユーリンは、したり顔である。
老マイアは少し迷い、関羽を見た。それは、この上さらに関羽に無償の奉仕をさせることへの躊躇いであった。
関羽は不格好ながら、しかし確実な信頼を得るに足る出来栄えの微笑みを返した。それが決め手となった。
「頼んでもいいのかい。……じゃあいまから弔っちまおう。家の横の樹の根本がいい。秋につける実が、テオは好きだったんだ」
「よろしいのですかな。穴のみ用意して、別れは後日ということにも……」
「たっぷりと別れは済ませたさ。まだテオがキレイなうちに、ね」
自宅の庭で愛馬テオの埋葬を済ませた老マイアは、澄明な意思のなかに寂しさをわずかに滲ませて、関羽に礼を述べた。
「ありがとう。遠くの墓を訪ねるには、アタシは歳を取りすぎた」
青々しい葉をしげらせる樹の根元の色の変わった土をなでて、老マイアは愛馬と別れた。
関羽は厳粛な面持ちで、それを見守る。その関羽の曇りのない眼差しを、ユーリンは見届けた。
「まだ若い樹ですね」
「そうさ。きっとこれからも、長く実をつける。アタシがいなくなった後でもね」
それを葬送の辞として、テオの墓を後にした。
老マイアの容態が急変したのは、自宅に戻って客間の長椅子に腰をおろした直後である。苦しげに胸を手で押さえ、荒ぶる呼吸を静めようと肩で息をしている。心労の解消が肉体的な疲労を呼び覚まし、老体を急激に蝕んだと見えた。
慌てて近隣から人を呼ぼうとする関羽とユーリンを、老マイアは制する。
「みっともなくて、すまないね。けど、人に見せて、おもしろいと、言われる、自信がないんだ」
「されど、このままでは」
「このままに、しておくれ。……アタシの、人生だよ。これくらいは、いつもすぐに収まるし、そろそろアタシも、いつでも墓に収まれる季節さ……こんなことで騒がせちゃ、立つ瀬がない」
老マイアの言を聞き、関羽は詫びた。己の不明を悟ったのである。
それでもユーリンは何かを言いたげだったが、すでに態度に結びをつけた関羽を目の当たりにして断念し、茶を淹れにマイア宅の台所に向かった。
「ウンチョウさん、つくづく、話せるヒトだね」
老マイアの呼吸が落ち着きを回復したころ、ユーリンが茶を客間に持ってきた。台所を借りて、淹れてきたのである。
「どうぞ。あるいはお水のほうがよろしいですか」
「どちらかと言うと、酒の気分だね」
茶をゆっくりとすすり、老マイアは気丈に笑った。関羽は呵々と笑い、ユーリンは苦笑した。
ふと老マイアが思い出したように、言った。
「不覚にも忘れてたよ。ウンチョウさん、そこのアタシの旅袋、持ってきておくれ」
部屋の隅に置かれていた荷を、関羽は老マイアに手渡した。道中で老マイアが背にかけていた小ぶりの旅道具である。
老マイアは、中から1本の瓶を取り出した。飾り細工のない使い古した容器の内から、何かの液体をたたえた音がする。
「死に支度で家を片付けていたら、ひょっこりと出てきてね。息子の墓に添えてやろうと思って、持っていったんだ……」
なぜそれが今もお手元に? という関羽の無言の問いに、老マイアが自ずから答えた。
「……もったいなくなっちまってね、そのまま持って帰ってきた! 不忠者にくれてやることはない。明日も知れぬ身だ、いま開けちまおう!」
老マイアは勢いのままに、瓶の口を詰めていた木片の栓をむしり取るように抜いた。立ち込める仄かな香りに覚えがある。関羽が尋ねた。
「この香りは……チョコレートリキュールですかな。幾度か調理の材として用いたことがあります」
「リキュールじゃないよ。これは酒だ。昔は村の家庭で造ってたんだが、今やすっかり珍しくなっちまった……カカオ酒とでも言おうかね」
「なんと!? ……酒ですと!?」
関羽が驚きようにユーリンが疑問を抱いた。
「ねぇ、ウンチョー。それ、違うの? リキュールて要はお酒じゃない?」
「似て非なるものであるぞ!? いわばリキュールは素材であり、それ自体で輝くことはない。あくまでスイーツの材として用いるものだ……しかし酒は違う! 酒はそれ自体がひとつの創造の到達点であり、人と天の対話の扉ともいえるのだッ!」
「……ああ、それで酒飲みは酔っぱらうと壁とお話したり柱と喧嘩したりするんだ。なっとく。発見、天界への門は酒場にあった。まる」
街中で行きずりの男を色香で狂わせたよりそなたよりマシではないか――と関羽は思ったが、老マイアの手前、あえては言わなかった。
老マイアが手元のカカオ酒についての些細な事情を明かした。
「どうしたって甘味抜きで飲みやすくするためには、香りに負けないくらいに味わいを強くしなくちゃいけない。満足できる質に仕上げるには、リキュールよりも仕込みの場所も時間もたっぷりくっちまう。そもそも甘味のないカカオ風味はあまり好まれないから、売るために作るならなら断然リキュールだし、気持ちよく酔うためなら街で美味い酒を買ってきたほうがいい。もうここらで造ってる家はないだろうね。アタシの最期を看取るには、うってつけさ。ウンチョウさんも試してみるかい?」
「それはありがたきお誘いですが……左様なことよりも、今から飲むおつもりですか。お身体に甚だしく障るのでは」
「ウンチョウさん、アンタ、養生を唱えて酒をあおる自堕落なクチかい?」
「失礼を申しました……となると場所も重要ですな。どこかご希望が?」
「家の裏手にいい景色がある。ちとそこの机と椅子を運んでくれるかい。あのコよりゃ軽いもんだろ。……コッチさ」
関羽が老マイアの指示に従って、椅子と机を軽々と抱えた。老マイアは不自由な足をひきずりながらカカオ酒を握りしめて、先導して歩く。
その光景にしばし圧倒されていたユーリンであるが、気を取り直して、2人を止めた。
「まった、まった。ウンチョウ、まった。マイアさんも! ……さすがに飲酒はダメですよ。何が起こるかわからない」
「わかってるから止めるんだろ? まっすぐな優しいコだね。でもね、いまさら身体をだいじにして……あれかい? しばらく経って、あいまいな気分のままいつの間にか知らずのうちに最期を迎えるのが似つかわしいかい? ……そりゃ酷だよ。アタシを見捨てないでおくれ」
「それを言われると……」
「……すまない。イジメるつもりじゃなかった。ボウヤは酒が苦手なんだね。こいつは酒飲みのジョークだよ。けどね、間近に最期を感じていると、それを避けるよりも、どうやって迎え入れるかが一大事なんだと思えてくるんだ。テオを看取った、気持ちのよいアンタたちと出会えた。晴れ晴れとした、今なんだ。これ以上を望むのは、胸焼けなんだ。だからひとつ試してみたいんだ。ヤケってわけじゃない。ここでこうするのが、アタシの人生なんだと、似つかわしさに満足してるんだ、許してくれないかね 」
ユーリンは何も言えなかった。
老マイア宅の裏手には、拓けた空き地があった。遠くに夕陽に縁取られた山の稜線が見える。木々の色合いは瑞々しく、日差しの名残り浴びてきらめいていた。風は心地よく、静かな景色であった。
老マイアは関羽の運んだ椅子に腰をおろし、カカオ酒を手酌であおった。関羽は屹立して見守るばかりである。老マイアが酒器から口を離し、想いの丈を吐き出した。
「最期に会えたのが、アンタたちでよかった。このまま迎えてもらいたいくらいだ。しかし考えてみれば、アタシがこのまま逝ったら、アンタら徒労になっちまうね。申し訳ない」
「はて? これは奇妙なことを。しかとマイア殿をご自宅までお連れすることができたではありませぬか」
「だけどそのアタシがすぐ死んじまったら、その甲斐もないだろう」
「明日を生きられる保証などもとより誰にも与えられてはおりますまい。労を惜しむ理由足り得ませぬ」
関羽の外見的な年齢は20代の青年のものである。その風貌に似つかわしくない達観した見識に老マイアは驚いた。
「正直な人だね」
その一言が、関羽の良心を刺激した。しばし言葉を探すように視線を左右にし、迷うように眉根をよせたが、やがて決意も新たにその心情を吐露した。
「……実を申すと……儂のうちには偽心がありました……」
実直な若者の懺悔を無碍にできるほど、マイアの老境は荒廃していない。関羽を勇気づけるようにうながした。
「おもしろそうじゃないか」
「……儂は武人です。これまで多くの馬と別れました。朽ちゆく骸として、風荒ぶ戦場に置き去りにして……」
穏やかな風が草木を揺らした。血煙薫る戦場のそれとは異なる、やわらかく生命をはぐくむ息吹である。関羽の独白が風にのった。
「……その実……儂は自らのためにテオ殿を弔いたかったのです。わずかなりとも、これまでの無念を埋めるために。先刻、マイア殿とお会いした時……儂はずっと馬のことを想うておりました。……あれほどまでに老い、足も萎え、それでも誇らしげな死を迎えた馬の無念を、ただ悼んでおったのです。朽ちて獣に食わすは忍びなく、正しく弔ってやりたかった。……実のところ、テオ殿の眠るに相応しき地を案内させるために、マイア殿をご自宅までお連れした次第です」
きっぱりと断定する。それは関羽なりの謝罪であった。
老マイアはしばし目を見開いていたが、関羽の告白の全容を理解すると、大声で笑った。
「あっはっはっは! ……そりゃ傑作だよ。礼を取り消す! ……そして礼を言うよ。アンタのおかげで、あのコをちゃんと弔ってやれた。……ああっ、ありがとう。これは気持ちがいい」
高純度の爽快感が、老マイアの心に染み渡った。ただひたすらに、愉快だった。
その老マイアの意外な反応に関羽は戸惑った。その愚直さこそが理由であることに、関羽は気がつかない。それがさらに極上の贈り物となって、老マイアを充実させた。
「アンタのようなヒトと巡り合わせてくれた聖女様に、感謝を」
たぎる高揚感を聖女陽子への謝辞に変えて、ようやく老マイアは心の整理をつけた。そして顔を暗くした。
「2つも未練を残しちまった」
関羽が目で続きを求めた。
「アンタたちに恩返しできなかった」
「……残るは?」
「いちど、注いだ酒を、飲みきれ、そうにない。……恥だ」
再びマイアは苦しげに左手で胸を押さえる。上体が震える。されど右手で握りしめる酒器だけは、微動だにさせない。
老マイアの手元の小さな酒器には、いまだ半量以上のカカオ酒が残っていた。黒曜を溶かした水面の端が風に揺れて、夕陽を散りばめるように揺らめいている。聴く者を内奥に誘うようなカカオ独特の薫りが漂った。
関羽が机の挟んで老マイアの対面に立ち、厳かに告げた。
「なればここはひとつ未練を断って、御身の葬送の儀としましょう。……もはや望めぬ幻の酒とのこと、ぜひに飲んでみたい。恩を返してもらおう」
関羽は机を挟んで両手を前に突き出し、大きな掌を広げた。
老マイアの眼に鋭い光が宿り、苦痛の色を追いやった。唇を引き締め、震える右手を懸命に伸ばし、関羽の指先に酒器を届けようと、もがく。
関羽は助けない。
それは老マイアの人生である。そしてマイアはその内において、この酒を関羽に譲るを決めたのだ。決めたのであるからして、譲るのである。それが矜持である。己の足で歩めぬほどに衰弱し、まさに死の淵に踊るような身体であっても、それは変わらない。
腕を迎えに行かせるのは、老マイアに対する侮辱であり、関羽にとっての禁忌であった。それゆえに断じて関羽は老婆の薄弱な腕を助けない。己の差し出す指先に、マイアの腕が達するのを、ただ待つ。
いまにも崩れ落ちそうな老マイアの腕が、関羽の手に届いた。握りしめていた酒器を、若者に委ねる。
「頂戴致す」
関羽は恭しく拝受し、カカオ酒に口をつけた。たちまちカカオの何たるかを知った。スイーツの材として定番たるチョコレート……その原型の深淵を伝えるような苦味が鼻の奥に立ち昇り、記憶の底に散り積もるチョコレートの甘やかな印象と混じり合って、骨髄まで染めるような鮮やかな漆黒が胸に広がり仄かに灯った。
関羽は理解した。薫りは、形ちを成す。人の記憶に深く根ざし、宿主の成りを司るのである。そしてこれは、ついぞ忘れがちなその道理を伝えるための酒である、と。
衝撃に打ちのめされたように、関羽はつぶやいた。
「……見事」
老マイアは安堵した。関羽がただしくそれを受け止めたことを、確信したのである。最後の荷を降ろしたように、マイアの全身から緊張が抜けた。役目を務めあげた満足感に、意識が浸潤されていく。
「……だろう。……その味、ずっと覚えておいて、くれると……うれしい、ねぇ」
「しかと。この身にかけて」
その言に疑いの余地はない――それが老マイアのまぶたを重くした。
「すこし、眠るよ。ひとりに、しとくれ。テオの声が、聴こえる……足音が……」
老マイアは、静かな眠りについていた。
関羽は空の酒器を丁重に返した。
「お見事でございます。然らばこれにて。いずれまた」
関羽は別れを告げて、その場を去った。
老マイア宅の客間で、ユーリンは待っていた。長椅子の上で姿勢を正し、謹直な面持ちで関羽を迎える。
「どう?」
「マイア殿はしばしお休みになりたいとのこと。……我らは村長殿のお宅で世話になろう。交渉は委ねるぞ」
「ふぅん。そっか」
ユーリンは音もなく立ち上がり、手早く荷をまとめた。出立の間際、ふとユーリンは客間の棚に残されていた1本の小瓶に目をつけた。
「こっちのリキュール? てやつ、使うね。ま、駄賃代わりてことでいいんじゃん?」
往年の売り物の残りであるらしいチョコレートリキュールの容器をつかみ、ユーリンは老マイア宅を出た。関羽も無言でそれに続く。
使う、という表現の仔細を関羽はユーリンに尋ねない。ユーリンが使うと言ったのであれば、それは使うということに違いなかった。そして、関羽がその使途の意義に疑念を挟んだことは一度もない。
ユーリンはマイア宅の庭に植えられた樹に立ち寄った。マイアの愛馬テオの眠る地である。
「種は撒くよ」
土の色の異なる区域に、ユーリンはチョコレートリキュールを注いだ。甘い香りが夕陽に焦がされて拡散する。
ユーリンはしゃがんで両手を土に近くして、深呼吸の後に、唱えた。
『———傾聴せよ、汝の両翼は翠の息吹を宿して地を馳せん』
苦しげに放出されたユーリンの乏しいマナが霧散し、そのうちの僅かな分量が、撒かれた酒精に誘われるように、地に沈んだ。それきり何の変化の兆しもない。その光景を冷ややかに見つめていたユーリンであるが、すぐに未練なく目を離して立ち上がり、関羽を連れてマイア宅の敷地を後にした。村長宅に向かう。
「できたことは一度もないんだけどね。ボクのありったけは注いだ。……あとは地に任せる」
「それでよかろう。畢竟儂らの領分は地に寄って歩めるところに限られる。そなたが選び、尽くしたというのであれば、儂は事の帰結如何に依らず、道を共にするばかりだ」
いまさらその意図を問うことはない。関羽は晴れ晴れとした心持であった。
ユーリンはそれを見透かしたように、けれどあくまでわからなさげに口を歌わせた。
「ふぅん」
「なんだ?」
「ちゃんと出すもん出したんだなぁ、て」
「……何のことだ?」
「ま。そのへんの処理も正妻の務めでしょ。お付き合いするよ。……やり方はボクの趣味で選ぶけどね!」
そう言って、ユーリンは足早に歩む。関羽は変わらず不思議そうな顔をしていた。
後日、老マイアはひとり自宅で亡くなったと伝えられた。それを疑問に想うものは誰もいなかった。
しかし、僅かばかりに奇妙な点もあった。その遺体は静謐な秩序に包まれていたのである。その死後からいくらかの日数を経ていたにもかかわらず、忌むべき地獄の予兆たる白く蠢くものに覆われることもなく、老マイアは安らかな微笑のままで埋葬の時を迎えることができた。まるで何かの精霊がその亡骸の周囲を駆け回り、いつまでも守護していたかのように。




