第84小節
クレアはたぶん、わたしよりも気を張ってこの演奏会にのぞんでいたのだと思う。
またね、電話する、とそれだけいって、クレアはマンションに帰っていった。
わたしは今夜はホテルに泊まることにした。
そうしたほうがいいような気がした。
わたしは衣装を着たまま控え室のソファーに座っていた。
ふと、彼の婚約者の彼女もリハーサルで、こうしてここに座っていたのかもしれないと思った。
これから彼とすごす日々を思っていたに違いない。
マンションの最上階のもうひとつの空き部屋になってるところがその場所だったような気がした。
彼女の想いがここにまだあるのだろうか。
わたしは着替えても、すぐには控え室を出なかった。
もう二度とこの場所にくることはないような感情に駆られて、なかなかソファーから立ち上がることができなかった。
それとも、何かが、そうさせているのか……
ドアがノックされた。
わたしは、どうぞと返事した。
男性が失礼しますとドアから顔をのぞかせた。
あのとき、ステキですとわたしに声をかけてくれた若い男性スタッフだった。
大丈夫ですか、とその男性はいった。
どうやら心配して確認してくれたようだ。
大丈夫です、とわたしは答えた。
わかりました、とその男性はいって、それから、ほんとうにステキな名前ですね、あなたがのこした風紋は一生消えることはないです、といって微笑むと、静かにそっとドアを閉めた。
フウモン。
ふうもん。
風紋ね。
また、ステキといってくれた。
名前だったけど。
風紋か……いいえ、あなたのことばこそ、風紋。
この夏の演奏会をしめくくるステキなエンドマークをありがとう。
わたしはそうこころでつぶやいて、そして立ちあがった。
控え室をでた。
お客さんたちはホテルの各自の部屋へもどったようだった。
ロビーではスタッフさんたちがまだ後片づけをしていた。
スタッフさんたちはわたしを見つけると、音のしない小さな拍手をしてくれた。
わたしも声にしないありがとうをいって、頭を下げた。
指示をだしていた支配人がやってきて、おつかれさまでした、といった。
わたしも、おつかれさまでした、といった。
今夜はホテルに泊まることを告げると、支配人は、わかりました、必要なものがあればフロントへ何なりと、といった。
ありがとうございます、とわたしは頭を下げて、それから歩きだした。
もう歩くことはないかもしれないホテルへの地下通路を、わたしはゆっくりとゆっくりと、歩いていった。




