第80小節
わたしとクレアは食事を終えて、翌日午前中に最終的な連弾の練習をすることを約束して別れた。
となりの部屋に入って電気をつけ、奥のリビングルームに行くと、そこにはクレアの部屋にあるピアノと見た目はおなじタイプの色もおなじ白のグランドピアノが置かれてあった。
家具も電化製品も調理器具も日用品もソファーもカーテンも最高級なものが揃えられていて、その新品のまばゆさにどうもまだ慣れないじぶんがいた。
わたしはそれらをひとつひとつ見るたびに、何だかほんとうにわたしにはもったいないといったそんな気分でいっぱいになった。
やっと操作の慣れたエアコンをつけた。
わたしはシャワーを浴び、髪を乾かし、肌の手入れをし、おおきな冷蔵庫にびっしり入っているミネラルウォーターを1本取りだして、夢心地のソファーに座って時間をかけてゆっくりとぜんぶ飲んだ。(冷凍庫にはなぜか冷凍ピザばかりがびっしり入っていた)
それからわたしはピアノに向かった。
軽く、弾いてみた。
反響が綺麗に、消えていった。
この音はとなりのクレアに聴こえるのかな。
そんなことを思いながら、少しだけ明日の練習をした。
指はなめらかに動いた。
クレアとふたりで演奏会をしているこの数日間がしあわせだった。
いつかそんな日がくればいいなと想像していたことが、こんなにもはやく現実となっているこの夏のめぐりあわせをふしぎに感じた。
わたしも、クレアも、彼も、何かに引き寄せられているような。
その場所にあつめられているような。
そんな感じさえした。
それからわたしは、ベランダにでてみた。
ほんの一部だけを月が照らした夜の海がひろがっていた。
ゆるやかな風が、心地よかった。
その風に、かすかにピアノの調べが聴こえた。
ああ、クレアが弾いている。
もうクレアのピアノだとわたしにはわかる。
わたしには、たまらなくまぶしく聴こえるから。
彼のピアノもわかる。
わたしのこころは、どうしようもなく弾むから。
わたしは耳をすまして、しばらくクレアの調べを聴いていた。
いよいよ、ほんとうに、明日が最後の演奏会。
あっという間、だったかな?
予定外のことがいろいろありすぎて、あの最寄り駅に降り立ったのがずいぶん昔のことのように思えてくる。
寂しい、という気持ちになるって、やっぱり楽しかったからなんだよね。
終わったら、彼のお見舞いにいってもいいか支配人に聞いてみようと思う。
何もいわずに帰るなんて、できない。
わたしを目を閉じて、調べがやむまで、聴いていた。




