第79小節
クレアのマンションに一緒に帰った。
部屋に入ったら、そこに理事長が待っていた。
明日で演奏会が終わる、今夜は労をねぎらいたくてね、と理事長はいった。
ダイニングルームのテーブルには豪華な食事が用意されていた。
わたしとクレアはさっそくいただくことにした。
理事長はワインとつまみにチーズを少しだけ、といった感じでわたしとクレアの話をニコニコしながら聞いていた。
ほんとうにわたしたちはとりとめのない話しかしなくて、それがまためちゃくちゃ楽しかった。
クレアはわたしが絶対音感を持っていて、学園の化学の先生が地方の出身の先生でなまりがすごくあって、それを授業中によくわたしが音階にあらわして彼女を笑わせていたという話をした。
たとえばやってみて、とクレアがいった。
クレアがその先生のなまりをまねた。
「イオンというのは、ギリシャ語で旅するという意味です」
わたしがそれをドレミの音階であわらした。
悪い子たちだ、と理事長は笑いながらいった。
ごめんなさいとクレアは笑いながら、わたしはすみませんとちょこんと舌をだして、あやまった。
それからわたしがホールで出会った調律師の話は、最近のクレアのいちばんのお気に入りでもう何度もせがまれていた。
どこが彼女のツボなのかよくわからなかったけど、クレアはわたしのその話にいつもゲラゲラ笑った。
そこで理事長が時計を見て、そろそろ帰るよといった。
クレアとわたしは立ちあがった。
送らなくていいから、食事を楽しみなさいと理事長は制してわたしたちを座らせた。
ああそれからとなりの部屋にピアノを入れておいたから、と理事長は身なりをととのえながらいった。
わたしがいたく恐縮して礼をいうと、理事長はとなりの部屋はあなたへのわたしからのささやかなプレゼントだからと、さりげなく口にした。
住んでもいいし、セカンドハウスとして使ってもいいし、ピアノの練習用に使ってもいい、自由に使えばいいからと。
それはいくらなんでもとわたしが首をふっていると、あなたにはいつもクレアのとなりにいてほしいんです、と理事長はいって微笑んだ。
そうして、とクレアがささやいた。
わかりました、じゃいただきますみたいになるし、ありがとうございます、もさらに受け取ります感が露骨ににじんでしまう。
わたしはこの場合どのように返事をすれば差しさわりなくご好意にあまえるかたちで相手の気持ちに寄り添うことができるのかわからなかった。
そして追い込まれて何とか絞りだした言葉が、となりにいます、だった。
それからわたしは何を思ったのか調子にのってずうずうしくも、ホテルのカラオケルームはのこしておいていただけるのでしょうかと尋ねた。
理事長はもちろん、といった。
よかったです、とわたしはいってホッとした。
やった。
ここから通える。
そう思ったことがそのままでてしまった。
そこは、ありがとうございます、というべきだったとっさに悟ったけれど後悔先に立たずだった。
さすがにクレアがひじでわたしをつついた。
もう何も要求しないから、とわたしは小声でクレアにいった。
ほんとかしらと、クレア。
理事長はわたしたちのそんなやりとりを微笑ましく見ていた。
そして理事長は、最終日の演奏会がんばって、といって去っていった。
そうなんだ、明日で終わる。
わたしはそのとき、その事実にはじめて対峙した。
クレアはもう座っていて生ハムを食べていた。
クレアはびっくりするくらいよく食べる。
なのに太らない。
わたしはすぐ太る。
お弁当を全部食べると罪悪感にみまわれるほどだ。
わたしは座ると、サラダをお皿に取った。




