第69小節
台風のはしっこの雨と風のなか、わたしとクレアは支配人が運転する車でホテルまで帰ってきた。
理事長は近くの空港までハイヤーで向かった。
わたしたちが病院からでる際に、彼の付き添いとして、駐車場に停めてあった車から降りて真っ赤な傘をさしてあらわれた女性に会った。
理事長に彼のマネージャーとして紹介され、帰りの車のなかでクレアから、彼女があのとき浜辺にいた彼の婚約者の友人の女性だと知らされた。
ホテルに着いて、わたしとクレアはわたしの泊まっている部屋でこれからのことを話すことにした。
それというのも、あと1週間ある演奏会を、わたしとクレアのふたりで行ってほしいという理事長からの要望があったからだった。
もちろん無理だったり、やりたくないのであればそれでかまわないとのことだった。
ふたりで考えて結論をだしてほしい、と理事長はいった。
まず、今日の演奏会まであまり時間がなかった。
時刻はもうすぐ2時。
3時までにはどうするか支配人に伝えなければならなかった。
クレアは壁側のベッドに座った。
勝手知ったる感じでクレアは見渡すこともせず、この部屋ははじめてじゃないような様子だった。
わたしは鏡台の椅子に腰かけた。
「わたしもこの部屋だった」
とクレアはいった。
「そんな感じがした」
「ここがいちばん眺めがいいのよ」
「そうみたいね」
「ああ、おじいさまが話したわね」
「うん」
「で、どうする?」
「どうしよっか」
「練習もしてないし」
「そうね」
「やっぱり彼の曲弾かないといけないわよね」
「やっぱりそうじゃない。彼の演奏会目当てにお客さんきてるわけだから」
「そうよね」
「弾ける?」
とクレアは不安げにいった。
「わたし?」
「彼の曲」
「弾けなくはないけど」
「さすがね」
「あなたは?」
「ちょっと今日は自信ないかな」
「うん」
「明日からなら何とかなるかな」
「じゃあ、今日はわたしが弾こうか」
「いいの?」
「あなたには助けてもらったから」
「あれくらい何でもないけど」
「わたしがやるよ今日は」
「ありがとう。ほんとわたしには真似できないあなたのすごいところよね」
「わたしにもあなたにまだまさってるところがあったのね」
「わたしがまさってるのはコンクールの順位だけよ」
「まさか」
「ほんとにあなたはじぶんのすごさがわかってないのね」
「そんなふうにいってもらえるとがんばれるよ」
「ほんとにあなたはじぶんのすごさがわかってない」
「2回いうとバカにしてるよ」
「そっか」
といってクレアは笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
それを見てわたしは泣きだしそうになったけど、必死でがまんした。
「助かる」
とクレアはいった。
「でも、わたしたちで、お客さん怒らないかな」
「そこはおじいさまがちゃんと手を打ってくれるから」
「そっか」
「宿泊料半額にするとか、さらに宿泊券をサービスするとか、そこはうまくやってくれると思うから心配ないわ」
「さすがね」
「まあね」
「じゃあ、さっそく支配人に伝えて、わたしもちょっと練習しよっかな」
「そうね。ほんとありがとう」
「ううん」
それからわたしは部屋の電話の受話器を取った。




