第68小節
わたしたちは彼の病室がある階の中央付近にあるテレビが置かれたコミュニティースペースへと移った。
テレビは無音で、画面には環境ビデオのような大自然の雄大な景色が映しだされていた。
そこはナースステーションが目に見える位置にあり、そのときカウンターには誰もいなかった。
ひとつのテーブルを囲むかたちで、わたしたちは座った。
時計まわりにいえば、理事長、クレア、支配人、そしてわたしといった並びで。
まず理事長が話しはじめた。
「あれは、クレアが小学校の5年生のときだったかな。あのホテルに親戚一同があつまって夏休みをすごしていたのは」
クレアがうなずいた。
理事長はつづけた。
「確か邦彦たち、ああ、息子夫婦、つまりクレアの両親がグループの仕事で本社にもどっているあいだの、ほんの1日の出来事だったね」
「うん」
とクレアがうなずく。
「そのときちょうど、彼の結婚式があのホテルで行われる予定だった」
「もしかしていまのホールですか?」
とわたしは聞いた。
「そうです」
と支配人は答えた。「演奏会のために改装しました」
「そうでしたか。あっ、すみません。話に入ってしまって」
といってわたしは頭を下げた。
「かまわないよ。気になることがあれば、聞いてほしい」
と理事長はいってわずかに微笑んだ。
「わかりました」
とわたしはうなずいた。
「結局、彼の結婚式が執り行われることはなかった」
と理事長はいうと、ぐっと何かをこらえた。
「どうしてですか?」
とわたしは尋ねた。
クレアがいった。
「わたしがね、あのホテルのまえの海で溺れたから」
わたしは、えっ、となって固まった。
「助けてくれたのが、彼の婚約者の人」
とクレアがいう。
理事長がそれにつづいた。
「彼女は流されてゆくクレアを何とか桟橋近くまでつれもどしてくれて、クレアは浜辺にいた彼女の友人が知らせたホテルの従業員によって救助された」
「それが、森川さん」
とクレアはいうと支配人のほうに視線を動かした。
支配人は視線を落としたまま、そのときのことを話しはじめた。
「わたしはお嬢様を浜辺へと。それから救急車を呼ぶようにその彼女の友人に頼みました。そうしたら意識を取りもどしたお嬢様があの女の人を助けてと。わたしは海を見渡しましたが人影はどこにも見当たりませんでした」
「わたしは叫びつづけたの」
クレアはいった。「はやく、あの女の人を助けてって」
支配人は、目をつむった。
わたしは、支配人から目をそらして、その視線をテーブルの上へと向けた。
支配人はつづけた。
「わたしはケイタイを握りしめてぼう然と立っている彼女の友人のもとにいき、救急車呼んでくれましたかと尋ねましたが返事はなくかなりショックをうけている様子だったので、わたしはすいませんと彼女の友人からケイタイを取り上げてなるべくくわしく状況を説明して連絡しました。お嬢様は、なおあの女の人を助けてと叫んでいました。わたしはケイタイを彼女の友人の手にもどし、それから海に飛び込んでいきました」
わたしはあまりの話の内容に息をのむばかりだった。
支配人はことばを詰まらながらさらに、つづけた。
「牧野様には、お話はしましたが、わたしは水泳が得意です。まだいまより若かったですし、かなり沖のほうまで泳いでいきました。お嬢様を襲った離岸流はもうありませんでしたし、波は静かになっていました。それから救急隊がボートでやってくるまで、わたしは彼女を、さがしつづけました」
それから理事長がいった。
「夜になって、そして朝になっても捜索はつづけられた」
「彼は……」
とわたしは思わずいった。
支配人は答えた。
「ええ。わたしは、野崎様のそばをはなれずにいるようにと当時の支配人から指示され、ずっと部屋のまえにいました。ずっと、泣き声が聞こえていました。朝になっても、ずっと」
クレアは泣いていた。
理事長はクレアの手をにぎりながらいった。
「あのホテルで演奏会をしたいと彼から連絡があってね。あそこなら、もしかしたらまた曲が作れるかもしれないといってね」




