第52小節
観客のまえでピアノを演奏するのはひさしぶりだった。
緊張感よりもワクワク感のほうが強かった。
話し声が聞こえ、笑い声が起き、誰かを呼ぶ声がした。
声たちを、わたしの耳がクレッシェンドでとらえてゆく。
それらが信じられないくらいに心地よかった。
なかにはわたしのピアノに耳を傾けてくれている人もいた。
ピアノが、人々のすぐそばにいる感覚。
そういった感覚は、いままでのわたしのなかにはなかったように思う。
ピアノとはつねに一対一の関係だった。
そこにはなにものも入り込む余地はなかった。
たぶん寄せつけもしなかったし、まわりを見る余裕も考えもわたしにはなかった。
それに対して孤独と感じたことはなかった。
おそらく、勝利がそれを打ち消していたのだろう。
いま、何より弾いていて、楽しかった。
スタッフさんが、そろそろと合図を送ってくれた。
わたしはまだ曲の途中だったけれど、きりの良いところで演奏をやめた。
そんな切りあげ方も演奏会がはじまる雰囲気を演出していて、わたしはわれながらかっこいいなと思ったりした。
わたしは立ちあがり、礼をした。
パラパラと拍手があった。
わたしはもういちど礼をして、譜めくりの用意をして、定位置へと移った。
客席は相変わらずいっぱいだった。
評判も変わらずいいみたいで、期待感もひしひしと感じた。
熱狂的なファンが押し寄せてくるんじゃないかって内心ひやひやしていた。
でもそんなことはなかった。
扉から、彼が登場する。
押し寄せてきたのは、拍手だった。
彼がピアノのまえでふり返って、礼をする。
わたしは座ったまま。
拍手が一丸となって、彼に降りそそぐ。
主役は、彼。
4日目の演奏会が、はじまる。




