第53小節
4という数字は昔からいいことがなかった。
演奏会4日目にして、わたしはミスをした。
1曲目の第3章の終わりのほうで音符をみうしなった。
体調がよくなかったわけでもなく、仕事だという認識もあったにもかかわらず、なぜだか意識がふっとどこかに飛んでしまった。
あせった。
あせりまくって、汗がふきだした。
彼はわたしの様子の変化に気づき、確かめるためにわざと曲の間をのばしてふり向き、わたしと目が合った瞬間にわたしの異変を悟って、そしてさりげなくそっと、譜面に左手がそうできる箇所でいまどこなのかを指さししめしてくれた。
汗は、冷や汗に変わった。
ポケットからハンカチを取りだして、汗をぬぐった。
じぶんではどうしようもできなくて、しだいに熱いほど顔が真っ赤になってゆくのがわかった。
わたしは何とか呼吸をととのえて落ち着こうとした。
恥ずかしさと、情けなさで、泣きたかった。
彼がゆっくりと何度もうなずいてくれていた。
気を取りなおそうと、わたしは座りなおした。
ときおり視界がもやがかかったようにぼやけていたが、気力をふりしぼってのこりの譜めくりを終えた。
曲が終わり、拍手が消えると、彼がだいじょうぶ? と小声で聞いた。
わたしは、だいじょうぶです、と答えた。
答えたけど、声になったかどうかもわからなかった。
彼が手をあげて、スタッフを呼んだ。
スタッフがきて、彼がスタッフに何か話した。
もう彼の声も聞こえなかった。
わたしはからだを動かすこともできずにいた。
こんどは意識がだんだんと薄れてゆく怖さを感じはじめた。
心臓の音だけがバクバクと異様におおきく聞こえていた。
スタッフがクレアを連れてきた。
彼がクレアにも何か話している。
その光景がどこか遠い世界のできごとのように思える。
わたしは夢を見ているんだと、そう思う。
すると、からだがふわっと浮いた。
ああ、やっぱり夢なんだと、笑おうとする。
なのに、笑い方がわからない。
意識がそこでわずかに揺りもどしのようにもどった。
わたしは彼に抱きかかえられていた。
わたしは彼を見つめるしかなかった。
涙があふれてきてどうしようもなかった。
彼がどこか悲しそうな顔でわたしを見ていた。
ごめんなさい、ごめんなさい……
そういいたいのにくちびるが重くて、動かせない。
呼吸をするのがやっとだった。
まぶたさえ重くなった。
意思と関係なくまぶたがゆっくりと閉じてゆく。
暗闇になったその瞬間、わたしは意識がなくなった。




