第44小節
2日目の演奏会も無事に終わった。
クレアは終わるとすぐさま帰る。
ホールにくる途中に島田さんがいたので気になって聞いたことがあった。
朝は何時にホールの鍵はあけられているのかと。
島田さんは基本的には7時だと答えた。
そのまえに弾きたかったらフロントにいってくれればあけるともいってくれた。
練習中、誰か入ってくることはないかとつづけて聞いた。
ホール内やロビー、及びホールにつづく地下通路には監視カメラが設置されていて、つねにチェックしているので安心して練習して下さいと島田さんはいった。
それから演奏会時のホールやロビーにはスタッフのなかに警備員が何名かいて、この控え室の出入りのチェックも厳重にしているから心配はいらないとも。
演奏会の会場に警備員がいるとは気づかなかった。
彼がいったようにものものしくなく、さりげなく警備されているところはさすが柊エバーグリーングループだった。
ノックがされた。
わたしは安心して即座にどうぞといった。
顔をのぞかせたのは彼だった。
「おつかれさま」
と顔をのぞかせたままいった。
「おつかれさまです」
とわたしは立ち上がっていった。
「少しいいかな?」
「はい」
彼はドアを閉めて、わたしの向かいのソファーに座った。
彼にうながされ、わたしも座った。
「今日はすごくよかったよ」
「ありがとうございます」
「完ぺきだね、やっぱり。その日のぼくのテンポをとらえるようになってる」
「そういっていただけると」
「でね」
「はい」
「ぼくはきみの能力をあまりにあまく見ていたことがわかってね」
「そんな」
「ううん。はっきりわかったんだ。ぼくに同期してるって」
「同期、ですか」
「そう。それは、譜めくりとしてはいいことだけど、ピアニストとしてはどうかと思うんだ」
「はあ」
「このままではきみのテンポに影響がでるかもしれない。そのことを感じたことはないかい?」
わたしは今朝ピアノを弾いたときのことを思い出していた。
「あの」
わたしはいった。
「うん」
と彼はうなずいた。
「今朝、練習したんです。ピアノ。何だかたまらなく弾きたくなって」
「うん」
「そのときわたしのなかに、新しいテンポが生まれてて、それがとても心地よかったんです」
「やっぱりそうか」
「えっ」
「それはきみのテンポではなく、ぼくのテンポだと思う。きみはぼくに合わせよう合わせようとして、きみのなかのある能力がそのことをすぐさま可能にしてしまったように思う」
「でも」
「うん」
「わたしはいままで感じたことのない、自由を感じました。それは悪影響ではないと思うんです」
「確かに。でもね、それは一時的なものだと思う。縛られていたものから解放されたときの、あの一瞬の自由さだと思うんだ。きみにはきみのテンポがある。誰にも惑わされないね。惑わされている時点でそれはきみのものではなく、まだ出会ってもいないともいえるんだよ。だからぼくがきみを完全に書き換えてしまうまえにこのことをちゃんといっておこうと思ってね」
「じゃあ」
「合わせなくていい」
「えっ」
「譜めくりはこうあるべきだときみは考えていてくれていたことはとてもうれしい。けど、きみをあるべきプロセスでなく変化させることはぼくは望まないんだ。わかってくれるかな」
「は……い」
「譜めくりは機械的にやってくれればいいよ」
「わかり、ました」
「ぼくに合わせずに、ジャストジャストでめくっていってくれればいいよ」
「はい……」
「なっとくいかない?」
「いえ」
「なっとくいかないかな?」
「いえ。ちょっと、今朝のピアノがあまりにも気持ちよかったものですから、だから……」
「わかるよ。ぼくも経験があるからわかるんだ。それが一瞬のものだってね。それがじぶんのテンポだと勘違いして、ぼくはけっこう苦しんだ。きみにおなじ思いはしてほしくはないんだ」
「それを聞いて……その、理解できました」
「よかった」
彼はそういうと、おだやかな微笑みを浮かべた。




