第42小節
朝食を終えたわたしはいったん部屋にもどって麦わら帽子を手にし、それから散歩にでかけた。
ホテルの外にでた瞬間、夏の密度がからだにまとわりついた。
わたしは麦わら帽子をかぶって桟橋のほうへと向かった。
浜辺では地元の小学生たちがビーチサッカーを楽しんでいた。
誰も泳いではいなかった。
そういえばいままで誰かが泳いでいる姿を見たことがない。
遊泳禁止なんだろうか。
あたりを見渡していると、ホテルの宿泊客たちが乗った送迎バスが海岸道路を駅のほうへと走り去ってゆくのが見えた。
おそらく宿泊客たちの大半はこれから近くのテーマパークへと向かうのだろう。
もしかしてルート的にそのテーマパークもグループの系列なのかなって思った。
遊歩道を通って、砂浜にビーチサンダルのあとをのこしながらわたしは桟橋に着いた。
いちばん手前のベンチにジャージ姿の少年が座っていた。
老婦人の手を引いていた、あの少年だった。
わたしは少年にもう10時を過ぎた頃だったので、こんにちはと声をかけて桟橋の先端へと行こうとした。
少年も爽やかな澄んだ声で、こんにちはとあいさつしてくれた。
「パンは美味しかったですか?」
と少年はつづけていった。
「ホテルの?」
とわたしは立ち止まって聞いた。
「はい」
と少年はふり返っていった。
「ええ、とっても」
「よかった」
「ホテルにパン届けてるの?」
「はい。すぐそこのベーカリーの息子です」
「そうなの」
「よかったら、となりどうぞ」
「そうね。ありがとう」
といってわたしは少年のとなりに座った。
「おばあちゃんから、ホテルにすごい綺麗な人が泊まってるって聞いてました」
少年はまえを向いたままそういった。
「じゃあ、わたしじゃないわね」
とわたしは笑いながらいった。
少年は困ったように肩をすくめた。
「きょうは、おばあちゃんは?」
「病院ですね」
「どこかお悪いの?」
「いろいろと」
「そう」
「話し相手になってくれたみたいで、すごくうれしそうに話してました」
「へえ~、たいしたこと話してないけど」
「いいえ、なってくれただけでもう」
「あなたは中学生?」
「はい。中3です」
「何かスポーツやってる? 鍛えたからだしてるけど」
「水泳を」
「へえ~。クロール?」
「バタフライです」
「バタフライか」
「バタフライですね」
「はやいの?」
「まあ、一応、2位でしたけど」
「県大会の?」
「いえ、全国大会の」
「すごいじゃない!」
「中学生レベルですから」
「それだってすごいわよ」
「それはどうも」
「オリンピックでれるんじゃない」
「目標ではありますけど」
「けど」
「ずっと2位なんですよね、ぼく」
「めっちゃくちゃはやいのがひとりいるんだ」
「いますね」
「いるか、やっぱり」
「います」
「そっか」
「ええ」
「わたしもね」
「はい」
「ずっと2位なのよ、ここのところ」
「へえ~、おなじですね」
「おなじだね」
「何の2位なんですか?」
「ピアノ」
「ピアノか」
「ピアノなの」
「そっか。何かぴったりですね」
「そう?」
「ええ」
「はじめていわれた」
「そうですか?」
と少年はやっとわたしを見てそういった。
少しおおきさの違う左右の目のバランスが印象的だった。
それはそれで完ぺきな配置のように思えた。
「よくバイオリンですかって聞かれるのよ。おばあちゃんはぴたりと当てたけどね」
とわたしはいった。
「ぼくには違いがわからないです」
と伏し目がちに少年はいうと、ふたたびまえを向いた。
「そうよね」
といってわたしは笑った。
「このままずっと2位かもって思います」
「そんなことないと思うよ」
「そう思いますか」
「思う。ねえ、あなたのバタフライはどっち?」
「どっちって?」
「基本に忠実なスタイルなのか、個性的なのか」
「個性的っていわれてます」
「そっちね」
「あなたは?」
「わたし?」
「はい」
「わたしは忠実なほう」
「じゃあ、どっちがいいってことでもないんですね」
「それがいいたかったのよ」
「なるほど」
「悩ましいところよね」
「ほんとですね」
波が桟橋にくだけて、ベンチの手前まで飛んできた。
「きょうは波があるね」
とわたしはいった。
「沖のほうで海流の変化が激しいときがあるんです」
「へえ~。もしかしてここって遊泳禁止なの?」
「禁止ってことではないですけど」
「けど」
「地元の人間は泳がないですかね」
「それはどうして?」
「信仰みたいなものだと思います」
「言い伝えみたいな?」
「まあそうですね」
「ふ~ん」
「ホテルの人から泳ぐ際はじゅうぶん注意して下さいとかいわれませんでしたか」
「ううん」
「お客さんにはかならず伝えてるはずだけどおかしいな」
「わたしはお客さんじゃないからじゃない?」
「お客さんじゃないんですか」
「アルバイトよ。おばあちゃんそういってなかった?」
「いえ」
「演奏会のアルバイトなの」
「演奏会のアルバイト」
「そう」
「へえ」
「ああ、もしかしたらわたしがカナヅチだって知ってたのかな」
「カナヅチなんですか」
「ものすごくカナヅチ」
「ものすごくカナヅチ」
「そう」
「へえ」
「ひょっとしたら学校の申込書に書いてたのかもね。海の近くだしお母さん心配して」
「申込書ってじぶんで書かないんですか」
「未成年者は親に書いてもらう用紙もあったから、ついでにじぶんのも書いてもらったの」
「ついでに?」
「ついでに」
「中身見なかったんですか」
「封筒に入れたまま提出したから」
「じゃ、書いてたんじゃないですかね」
「そうかもね」
「聞いてみたら解決しますよ」
「そうね。まあでも、聞くと責めてるように聞こえるかもしれないからやめとく」
少年は深く何度もうなずいていた。
ふたたび波しぶきが足もとまで飛んできた。
「行きましょうか。おおきいのがくるかもしれない」
と少年はここにいる危険を察知したのか、そういってわたしをうながした。




