第37小節
演奏会まで1時間。
ホールのロビーではスタッフによる準備がすすめられていた。
ソファーのカバーははずされ、ドリンクバーの棚にもお酒の瓶がなべられていた。
わたしはホール横の花嫁の控え室のような部屋で(実際そうだったと思うけどそこで)待機していた。
その部屋にはロッカーが設置されていて、鏡台と応接セットも置かれてあった。
洗面所もちゃんとある。
空調は適度に温度調節されており、森に面したガラス窓にはレースのカーテンが引かれてあった。
わたしの名前が書かれたロッカーには演奏会で着る衣装と靴が入っていた。
事前に支配人から手配しておいたといわれていた服と靴のサイズだった。
衣装は、シルクのブラウスが純白で、ロングスカートがダークブラウンのものだった。
わたしはその衣装に着替え、鏡でチェックした。
今日までノーメイクか軽いメイクで済ませていたので、しっかりメイクしたのはここにきてからははじめてだった。
それからわたしは応接セットのソファーに座って、テーブルの上にある本日演奏される曲の楽譜を手に取っておさらいをした。
ひととおりさっと目を通して、わたしは楽譜をテーブルの上に置いた。
もうそろそろ開場する時間。
わたしは立ちあがって、ドアをちらっとあけてロビーをのぞいてみた。
すでにもう観客の人たちがそこにはあふれていた。
やはり女性がおおい。
しかもみんなドレスアップしていた。
うわっ。
本格的じゃん。
こうゆう世界だったんだ。
わたしはさっと閉めた。
見なければよかったかも。
落ち着こう。
とりあえず落ち着こう。
わたしは深呼吸をして、ふたたびソファーに座った。
テーブルの上にはミネラルウォーターのペットボトルが6本と箱に入ったサンドイッチがふたつと袋入りのレモン飴がひとつ用意されていた。
ペットボトルを手にして蓋をあけ、少しだけ口にした。
ノックがした。
どうぞとわたしはいって立ちあがった。
入ってきたのはクレアだった。
クレアはすでに同じ衣装に着替えていた。
メイクもばっちり。
クレアは、暑いわね、といって向かいのソファーに座った。
わたしも座った。
「どうだった?」
とわたしは聞いた。
「何が?」
「あのあとリハーサルしたんでしょ?」
「ああ」
「まあ、問題ないわよね」
「わたしを誰だと思ってるの?」
「ならよかった」
「だからってわたしはあくまで控えなんだから、あなたは仕事をきちんとまっとうする義務があるのよ」
「まっとうするって」
「まっとうする、でおかしくないでしょ」
「人生みたいでちょっとおおげさじゃない」
「仕事を甘く見ない」
「はい」
「よろしい……って、なんか今日は素直じゃないの」
「わたしはいつも素直だけど」
「そんなことはない」
「受け止め方の問題よ」
「どうゆうこと?」
「説明がめんどくさいからいまはしない」
「気になる」
「いまは追及はやめて」
「わかった」
「今日は客席に祖父もいるから一応いっとくね」
「理事長が?」
「彼のファンじゃないのよ。いったけどあなたのファンなんだからね」
「うわっ、余計に緊張する」
「だいじょうぶよ。失敗したって」
「だいじょうぶなわけないじゃない」
「それさえかわいいっていってたから」
「よく意味がわからないけど」
「まあ、ある意味家訓的な哲学ね」
「家訓的な哲学」
「そう。その人の失敗を不快に思うか、そう思わないかで愛がはかれるのよ」
「わたしは愛されているの?」
「いろんな愛があるなかのひとつよ」
「さっぱりわからない」
「愛はそうかんたんにはわからないわよ」
そのとき、ふたたびドアがノックされた。
わたしたちは、立ちあがった。




