第38小節
純美なメロディーが流れている。
現実の彼がつむぎだす旋律は、爽やかさにうるおいがあった。
軽やかでふんわりとしていて、ぬくぬくしていた。
わたしもそうだけど、そこにも女性たちは、性的な魅力を感じているようだった。
クレアは端の司会者席のすぐそばの目立たないところに座っている。
両サイドのうしろのほうの壁際にはスタッフが数名ずつ立っている。
彼が華麗にピアノを弾いている。
CDとは違う。
リハーサルのときとはまた違う。
まるで別の曲のように聴こえた。
こんなにも違って聴こえるものだろうか。
観客が入ったこのホールがそうさせているのだろうか。
彼が異なった弾き方をしているからなんだろうか。
しかし彼が弾き方を変えているわけではなかった。
あるとしても、リハーサルから彼のピアノを間近で聴いてきていたわたしにはその違いはわからなかった。
音符のひとつひとつ。
その強弱。
長さ、短さ。
リズム。
少しクセのあるテンポ。
リハーサルのときのそれと変わらない。
弾き方でないとしたら、何なんだろう。
音色……
反響してくる、その音色かもしれない。
いつしかピアノの響きは、ある感情に、共振しはじめていた。
出逢えた、しあわせ。
いつまでも変わらない、想い。
ひとつのメロディーラインが音階を移動しながら展開してゆく彼のその特徴的な流れに、人々のさまざまな想い出が吸い寄せられるようにして寄り添い、そして彩ってゆく。
ピアノはあくまで伴奏。
人々の心がそれに合わせて歌っていた。
これが共鳴というものなのだろうか。
ピアノが呼吸していた。
ピアノが生きていた。
彼が弾くことによって、よろこんでいた。
わたしは胸が熱くなっていた。
あの別れ方。
じゃあまたね。
そんなさよならの余韻をのこしながら、曲は終わった。
みんなやっぱり、そこがラストにきているこの曲が好きなんだなって思った。
彼がそっと、ふり向いた。
わたしは、彼の目を見た。
それでいいと、いってくれてるような目だった。
静かにはじまった拍手は、やがてホールいっぱいにひろがっていった。
彼は立ち上がり、観客に向かって礼をした。
わたしは熱くにじんだ涙を指でぬぐい、次の曲の譜面を用意した。




