第31小節
今日と明日は本番のようにランダムに演奏してみる予定だった。
おなじ演奏会にはしたくないというのが彼の希望らしくて、レコード会社が行った『1日かぎりの夢の演奏会リクエスト』にもとづいたその演目が今日渡される。
それぞれのシリーズのファンがいて、またそれぞれの曲のファンがいる。
すべてのお客さんの希望に添うことはできない。
そのかわり、その日、どの曲が演奏されるのかといった楽しみはあった。
演奏会は約1時間。
ふたつの曲を演奏する。
3つのシリーズの曲のなかから、ひとつのシリーズ同士にならないようにランダムに組み合わせる、という構成にしたらしい。
彼のメロディーはシンプルだけど、そこには優美な郷愁があった。
それはどこか、なつかしいやすらぎに似ていた。
縁側ですごす満たされたまどろみ、といった感じがわたしはした。
それと、各曲にはかならずといっていいぼど、とびきり魅力的なメロディーラインがひとつは用意されていた。
それらのメロディーは、ときには思わせぶりに、ときには茶目っ気たっぷりに、ときにはじゃれてくるようにあらわれたりするので、わたしなんかは母性をくすぐられるといった感じがして、そこもファンとしてはたまらない、この3つシリーズにそなわった魅力的な横顔だった。
じゃあまたね。
その別れことばは友だちのいつものそれのように、彼はまた、美しいメロディーたちに会わせてくれる。
その期待感たるや、それはもうはんぱではなかった。
3つのシリーズ。
そのなかにはおなじメロディーがいたるところにちりばめられていた。
メロディーはメロディーであいさつしていた。
そんなあいさつをする関係。
そう、海と空と風は友だちとしてつながっていた。
そこで、わたしたちは気づく。
各曲がそれぞれリンクしていて、海、空、風へと循環しているっていうことを。
これはひとつの魂がそれらの友だちと会って(あるいは同化して)、地球をめぐるものがたりだった。
その壮大なテーマにもかかわらず楽譜は驚くほどシンプルで、そこからどうしてあんな深い音が生まれるのかふしぎなほどだった。
だから特に難しいと思われる譜めくりの曲はなかった。
逆にいうなら、特徴的な部分が目印にならないから、余計に気をつけなければならなかった。
わたしはそのことを肝に銘じていた。
日にちはずれてもスケジュールの順番通りに進んでいくことで、あらかじめ予習も、万が一の備えもできていたことが、そういった注意点をわたしに気づかせてくれていた。
そんなふうに彼は、わたしが安心するようにはこんでくれる。
わたしもとにかく彼に安心感をあたえたかった。
あと、心配なことがあるとすれば、それは彼との呼吸だった。
合図はしてくれているけど、だんだん回数は減らしている。
合図をしなくなったときの期待に応えないといけない。
今日明日でそれを乗りこえられたらと思う。
おっと、まだ心配なことがあった。
クレア。
彼女がまた突拍子もないことさえしなければ演奏会はうまくゆく。
その段階まできている実感を、わたしは確かに感じていた。
どうかクレア。
お願いだからおとなしくしていてね。
部屋でそうした心の準備をしていると午後がきた。
いつものように少しはやめにホールに行こうとエレベーターで下りて1階のロビーにでたら、何やらものものしい雰囲気が玄関まえに漂っていた。
支配人を筆頭にそこには背広姿の男の人たちが大勢いずらりと整列していて、どうやら誰かを出迎えるためにかれらは待機しているようだった。
わたしはフロントの女性に誰かくるんですかと聞いたら、ええ会長がいらっしゃるようです、と答えた。
会長。
ということは、つまりはうちの学園の理事長がくる。
クレアのおじいさま。
実物は学園の講堂の壇上にいるときの姿しか見たことがないけど。
一応、あいさつしたほうがいいのかな、と思っていたら玄関まえに白いベンツが到着した。
出迎えの男の人たちに一斉に緊張が走った。
ベンツから降りてきたのは見覚えのあるロマンスグレーの初老の紳士、いつものダンディーなスーツ姿のわが学園の理事長と、風雲児のクレアだった。
うわさをすれば何とかかと、わたしはとっさに隠れようとしたが時すでに遅かった。
ふたりは会釈もそこそこにホテルへと入ってきた。
いま隠れたら余計に変なやつだと思われてしまう。
もともと挫折してアイドルになろうと安易に考えるような変なやつだけれども、まあそれはそれとして。
そんなふうににっちもさっちもいかなくなってフロント横で固まっているわたしを彼女はあざとく見つけて手をふった。
苦笑いしているわたしに、彼女は理事長の腕をひっぱってわたしのところに連れてきた。
エレガントなお嬢様ファション。
それが嫌味にならないほどの美貌。
いつも長い髪にはトレードマークのダークグリーンのリボンを結んでいる。
「出迎えてくれなくてもいいのに」
とクレアはいった。
「たまたまよ」
とわたしはいい返した。
「そう。あっ、こちら祖父です」
「はじめまして、美風さん」
と理事長はいった。
「あっ、はじめまして。牧野美風です」
「いつも、孫がお世話になっていて」
「いえ」
「祖父はあなたの大ファンなのよ」
とクレアはネッと理事長の腕を抱いた。
「はっ?」
とわたしはなった。
理事長はいった。
「いつもは遠くから。しかし、間近でお会いするほうがはるかに綺麗だ」
と。
「そんな」
とわたしはじんわり笑顔になってゆく。
「これから、リハ?」
とクレアがわたしの笑顔を途中でとめる。
「うん、そう」
とわたしは楽譜の入ったバッグをこれみよがしに少し掲げてみせた。
「明日からわたしも参加するから」
「そう」
「何だか孫がわがままいってしまって」
と理事長は困ったような顔でいった。
ほんとうに困っているといった切実さを、わたしは見逃さなかった。
だからついわたしは、ほんとに、といいそうになったけど、やめた。
「いえいえ」
とわたしはいった。
「じゃあ、まあ、いろいろよろしくね」
とクレアはいうと、支配人らに丁重に案内されてふたりはエレベーターのほうへと去って行った。
これは思っていたよりはるかに大変なことになるんじゃないかと、わたしはおおいなる不安にさいなまれていた。




