第32小節
ランダムに選曲した譜めくりが終わった。
今日はいわば試験のようなものだという気構えでのぞんだので、あいかわらず緊張はしていたけれど何とかワンミスもなくうまくいった。
その証拠に彼は一度も合図はしなかった。
もうすぐ空が色を変える。
試験の結果がわたしの夏を変える。
にゃんてね。
でもちょっと、どきどきしていた。
「さすがだね」
ピアノに向かったまま彼がいった。
「ありがとうございます」
とわたしはうれしさを隠していった。
「もうだいじょうぶだね。明日は初日とおなじ演奏をして本番にそなえよう。初日さえうまくゆけばあとは何とかなるもんだよ」
「はい。はりきっていきましょう!」
「うん。そうね。はりきっていこう」
「うふふふふふ」
「ははは……」
「ああ」
「ん?」
と彼はほんのわずかに顔をこちらに動かしていった。
「彼女も明日から参加するそうです」
「そう」
「よろしくお願いします」
「うんわかった」
「ああそれから、ひとつ質問してもいいですか?」
そういうと、彼がからだをこちらに向けた。
「どうぞ、何なりと」
「あの、ピアノとは楽しくってしかたがないって関係でいないとっておっしゃいましたよね。わたしあれからずっと考えていたんですけど、よくわからなくて。その、具体的にどうすればいいのか、どう思えばいいのかって」
「じぶんのピアノのいちばんのファンになることだよ」
「わたしが」
「きみ自身が」
「楽しくなかったらファンにはならないでしょ」
「そうですね」
「きみも誰かのファンでしょ? その人を思っているとき楽しいはずだよ」
「ああ、はい」
「きみはじぶんのピアノの音が好きかい?」
「じぶんの、音」
「そう」
「好き……なのか、考えたことが、ないですけど」
「うん」
「嫌いというか、そうですね、いつまでも好きになれない、もっときれいな音を出したいと思うところはあります」
「きみでもそうなんだね」
「もちろんです。あっ、そういうことではなかったですか?」
「ううん。合ってるよ。ただそこを欠点として見るんじゃなく、個性として受け入れてみるといいんじゃないかな」
「個性として」
「そう。それがきみらしさであって、魅力になっていくところでもあると思うから」
「魅力に」
「うん。きみは彼女のピアノを、もしかしてライバルとしてでしか聴いたことがないんじゃないのかな」
「クレアのですか?」
「うん」
「ライバルとしてでしか」
「そう。彼女のピアノを親友として聴いてごらん」
「親友、として」
「そこにも、きみが彼女に勝てない理由が見つかるはすだよ」
わたしは、ことばをうしなっていた。




