第20小節
夕陽が雲に隠れたら、波音がいちだんと騒がしく聴こえた。
わたしは窓を閉めてベッドにもどり、あおむけになってスマホをいじりはじめた。
彼のことがニュースになっていないか確かめた。
まだどこもニュースにはしていなかった。
彼の関連ニュースのトップは、3年間沈黙がつづいていることがさまざまな憶測を呼んでることに言及しているこれまでの記事のままで、変化はなかった。
わたしはスマホをわきに置いて、あしたの風シリーズの楽譜を予習することにした。
ベッドに座って楽譜をめくっていると、さっき彼がいったことばがよみがえってきた。
からだを通して伝わってくるもの。
その想い。
学生であるいまのわたしにとってピアノはコンクールでしかない。
わたしは楽譜どおり完ぺきに弾くことで、それではじめて伝わるものがあると信じ込んでいた。
完ぺきがすべてだったし、完ぺきがゴールだった。
それで満足していたし、それに結果もついてきていた。
もちろん曲の背景や作者のメッセージも勉強はしている。
曲への理解を深めようと歴史も学んでいる。
それらのイメージはわたしのなかにあるはずだ。
それでピアノにのぞんでもダメだということなのだろうか。
わからない。
でも、彼の指摘は胸が騒ぐ。
わたしはコンクールのピアノからミスは鋭く察知するが、想いは感じない。
ミスがあるだけで想いは消えうせるものだから。
完ぺきな技巧。
すなわち、すぐれた技術。
そこにこそ精神性が宿る。
それこそが想いを伝える唯一の方法。
その努力が芸術というもの。
いくらイメージして弾いたからといってそれが表現されるものだろうか。
それはもはやテレパシーのような超自然的な世界の話になってしまい、かえってピアノというものをおとしめることになってしまうのではないか。
想いを意識するなんてかえって邪魔なだけ。
完ぺきに演奏することが観衆のみんなのため。
完ぺきのさきにはじめてたちあがる想いを届けるのが、わたしの役目。
そう思っていた。
かといってコンクール以外のピアノから何も感じないというわけではない。
CDのピアノはミスがないものだからわたしは安心して聴くことができる。
プロの技巧からあらわれてくる心象風景を。
演奏が終わったあとにくる情感という残り香を。
わたしは心おきなく楽しむことができる。
感じないわけではない。
それでしか感じないことがおかしいのだろうか。
そうなってしまってることが悲しいことなのだろうか。
このところ、小さいがあきらかなミスがあるクレアにわたしは負けつづけている。
わたしは機械のような無味無臭で、クレアにより人間味を感じるということなのか。
その答えがわたしの考える想いの誤解にあるのだろうか。
彼はきっとヒントをくれたのだ。
いつしかわたしの耳は採点装置になっていたのかもしれない。
でも確かに今日、わたしは感情に流されかけた。
それは譜めくりという位置だったからなんだろうか。
あのあと少しだけ弾いた。
でも彼の演奏に感じたものを、ふたたびじぶんのピアノから感じることはなかった。
そうか。
そうなんだ。
やはり彼のからだを通して伝わってくるものがあるのだ。
部屋が薄暗くなってきていた。
わたしは窓を見やった。
外は夜になりかけていた。
ということはもうじき1日歳をとるということかと、わたしはなりかけの夜にメッてした。




