無心の逃走2
どくん、と心臓が跳ねた。
ミラシェスタ学院。つい小一時間前にローズ嬢から強く止められた、道の名前。
そこでは、向こう五年は実用できる技術さえ開発されないとされている脳チップが高度なレベルで研究されており、その上こうして実用化されている。
……なんなんだよ、これ。
すると、小刻みにティアフィールの腕が震えていることに気が付いた。しかし、良く見るとそれは腕だけでなく肩や踵まで震えているのが分かった。
痛がっている? ───傷を?
怯えている? ───何に?
怖がっている? ───なぜ?
わからない。そもそもの理由が判然としない。
震えはいつからのものなのか。チップの話をしだした時なのか、それともずっと前からなのか。
しかし、俺は追求することを止めた。この場合、俺は完全な荷物で足手まとい。俺が広げている勝手な想像よりもずっと、ティアフィールは自分の事を理解しているだろう。
俺は、頼ってもらうことさえできない自分を、酷く不甲斐ないと思った。
「分かった。取り敢えず、ミラシェスタについては置いておこう。でも、後でじっくり聞かせてくれ。ミラシェスタには個人的に興味がある。……それで、そのテキストにはなんの意味があったんだ?」
「……申し訳ありません。今はお答えできません」
「それも、じいさんの意志か?」
「はい……」
「そうか。なら教えられるときになったら教えてくれ」
この展開は、テキストファイルを見た時から何となく予想していた。恐らく、相当に極秘扱いなのだろう。そこでなぜ、ティアフィールに伝えろと指示があったのかは疑問が残るが、ティアフィールの上司にあたる加賀にも教えられない内容。いい予感は、しない。
「……そして、もう一つこれと関連して謝らなくてはならないものがあります」
「なんだ?」
「これから私の思考力は著しく低下します。なので、礼様のお世話が出来なくなってしまいますが、よろしいでひょうか……?」
「それって、ヤバくないか? ……いや、そこら辺は俺よりずっと知っているか。……分かった。任せるよ」
「有難うございます。恐らく十分程は脱力状態に近くなります。完全に元の思考力を取り戻すには三十分程使うことになると思います」
「分かった」
俺はどうしようもなく、ティアフィールがプロセスを進めている横で加賀の手元を見ていた。
すると突然横で、背を真っ直ぐに伸ばしていたティアフィールの体がシートに沈み込む。見ると、まるで眠るような顔つきで両手を膝の上で重ねていた。
「ティアフィール?」
問いかけてみるが、帰ってくる言葉はない。既にティアフィールの言っていた思考力が落ちているようで、まるで意識の無いように見える。
「加賀さん、でいいんでしたっけ? あとどの位で着きそうですか?」
「加賀で結構ですよ。意外と道が混んでいるので15分はかかりそうですね」
「わかりました」
蒼井の家は今、どうなっているのだろうか。やはり他の有力者に助けて貰っているのか、むしろ逆に誰もこの沙汰に関わろうとしないのか。
俺程度の理解と適応性ではわかる筈もない。しかし、無意識領域は生命の危機をしっかりと認識しているようで、栄養ドリンクを飲んだかのように思考が鋭敏化する。
───あのバリケードを作っていた奴らは、明らかに正式の部隊じゃなかった。
───他の蒼井はこのことにどこまで感知しているんだ?
───この一連の事件を親戚共が引き起こした可能性は?
そうして手持ち無沙汰の俺は、取り留めの無い思考の波へと埋没していった。
......................................................
「礼、さん……」
掠れるような小さな声。
聞こえてきたその音に、俺の彷徨っていた意識が一気に収束する。
「おいティアフィール、大丈夫か?」
「はや、く……早くこの車から、降りてください……。あぁ、引いてしまった。……撃ってしまった」
「何だって? なんて言ったんだ?」
「違う、違う……早く、ここから……あなただけでも、早く」
「……?」
ティアフィールは意識が朦朧としているのか、現実と夢の判別がついていないかのように、うわ言を並べる。
今の彼女は、普段の凛々しい姿からは想像できない姿だ。体を小さく丸め小刻みに震えており、薄く開かれた目は縋るような光を携えて俺を見上げる。
そして、一筋の涙が頬を流れた。
明らかに、異常。
これがティアフィール自身が言っていたものなのだろうか?
「どうしたんだティアフィール。何をそんなに怖がっている?」
「───礼様、少しまずい状況です。何者かに囲まれ始めています」
「……、さっきの奴らの仲間か?」
「確実にそうでしょう」
「こんな、……こんなオープンな場でやり合う気なのかよ」
直後、いきなりステアリングがきられた。俺はドアに激突し、襲いかかる遠心力に必死に耐える。すると、胸の中に飛び込んできた銀色があった。確かめるまでもなく、ティアフィールだ。
「ぐぅ───」
立て続けに右へ左へと重力に振り回されるが、なんとかティアフィールの柔らかい肩を抱きながらその場に堪える。
一瞬、背後を振り返るとそこには一般車の間をを縫うように進み押し寄せてくる何台もの車があった。
「礼さん、……はやく、早くここから降りてください。でないと、あなたも加賀も───」
「何言ってんだお前、どういうことだよ」
すると、ティアは緩慢な動きで時折重力に流されながらも、座席の下を何やら漁る。そして取り出したのは、サポーターらしきものだった。
「加賀……」
「───っ、んだよティアフィール、こっち今立て込んでんだ。……てお前まさか」
「はやく……開けてください」
「くっそ、何を見たんだよお前は! 礼様、そいつの言う通り、そのサポーターを手首と肘、肩、腰、膝、足首、あと首に全部着けてください!」
そうしてゴムとも金属とも言えない素材でできた十二個のサポーターを投げてよこされる。俺は訳のわからないまま、それらを各部位に装着していく。
「礼さん、これを……」
振り回される車内の中、同じくサポーターを着け終えたティアフィールは名刺入れ位の大きさの物体を渡してくる。
見ればそれは、携帯型の演算装置だった。
俺は訳もわからずそれをポケットへ入れる。
「これから、車から飛び降ります。……お願いします。私を信じてください。……このままでは、ここにいる全員が死んでしまいます」
「おいおいおい、まさかこのまま? 嘘だろ?」
「大丈夫、です……。自動検知で勝手に受身をとってくれますから」
「いやそういう問題じゃ───」
「行きますよ……」
そうしてティアフィールはのろのろとした動きで俺を乗り越えて、ドアのハンドルへ指先をかけ、
────そして、引いた。
扉が背後へスライドしていき、轟音が巻き付く風に乗って脳を揺さぶる。目の前の景色が、一瞬で横へと流れていく。
眼前の様子を惚けてみていると、トンと背中を押された。それは小さな力で、しかし確実に体の重心をずらすもの。
「行ってください……!」
「うわああぁ───っ!!」
感じるのは爆風。
消えたのは爆音。
加速する思考が、迫り来る地面をはっきりと知覚する。
俺は恐怖に目を固く閉じ、意味のないことだと分かっていながらも、無意識に曲げた腕を突き出してなけなしの受身を取ろうとする。
直後、全身の各所にチクリとした痛みが走った。同時、死の感触に硬直していた肉体が勝手に動き出す。
驚きに、瞼を上げた。
永遠とも思える永い時間。
流れていく周囲の空間の中を、俺は落下し───
「うぐっ………!」
意志とは関係なく動いた右手がコンクリートに触れ、高速で後ろへと受け流す。その僅かなベクトルの変動によって、景色が回った。
空転。
サポーターに包まれた膝と靴底で着地を繰り返し、最後は地面を抉る様にして停止する。
遅れて、焼けたゴムの臭いが漂ってくる。
俺は硬直した関節を動かして体を起こした。
「……すげー、マジで止まった」
見ても、打ち身の一つさえどこにも傷はない。
俺は体を見回しながら縁石の近くから立ち上がり、顔をふとあげた。
そこに、飛び込んでくる人影があった。
それはたったの一回の跳ね上がりだけで、着地を成功させる。美しいとまで形容できる、見事な受身だった。
ティアフィールだ。
しかし、ティアフィールは堪えた体勢で数秒固まったかと思いきや、次の瞬間には地面へ崩れ落ちていた。




