第1話
「ひどい……! お姉様、どうしてこんなことをなさるのですか!」
学園の噴水広場に、甲高い声が響き渡った。
膝をついて泣いているのは、義妹のパウラだ。純白のサテンドレスの胸元には青黒い染み。足元には、蓋の外れたインク壺が転がっている。
そして、噴水の陰から金髪の青年が飛び出してきた。
私の婚約者にして、この国の第二王子、フーベルト殿下である。
「アグネス! 貴様、またパウラを虐げたのか! この性悪女め、恥を知れ!」
昼食を広げていた生徒たちが一斉に振り向いた。
私は扇を閉じ、二人の顔を順に見た。
(下手くそすぎる)
私がパウラに呼び止められた時から、噴水の裏には殿下の赤いマントがはみ出していた。隠れるなら、まず裾をしまっていただきたい。
けれど、それ以上に腹が立つのはドレスだった。
あの裾のレースは「昼食会に着たいの」と三日前に泣きつかれ、私が三晩かけて縫い直したものだ。昼間は授業と王宮の仕事。針を持てるのは夜しかない。
最後の一針を縫った指が、まだ痛む。
「黙っているということは、認めるのだな!」
「殿下。怒鳴る前に、少しだけその頭をお使いになってはいかがですか」
「なっ、なんだと!?」
私はパウラの前に立った。彼女は胸元を隠すように両手を重ねる。
「パウラ、私がどうやってインクをかけたと?」
「お姉様が、その壺を振って、正面から……!」
「正面から、ですか」
染みは右の襟元から胸元へ流れ、左肩は白いままだった。
「不自然ですわね。右肩の上から流したように見えますけれど」
「染みなんて、布に染みれば形が変わるでしょう!」
「ええ。その通りです。ですから、形だけで決めつけるつもりはありません」
私はうなずき、彼女の足元を扇で示した。
「では、私が振り回したはずの壺の蓋を、なぜあなたが握っているのかしら?」
パウラが右手を背中に隠した。
遅い。白い指の間から、青く汚れた小さな蓋が見えていた。
「お、お姉様が落としたから、拾って差し上げただけよ!」
「いつ?」
「それは、インクをかけられた後に!」
「違います」
背後から、細い声がした。
噴水の縁でパンを持っていた女子生徒が、立ち上がっている。
「私、見ていました。パウラ様が壺を開けて、アグネス様をお呼びになったところから。アグネス様は壺に触っていません」
「見間違いだ!」
殿下が怒鳴ると、彼女はびくりと身を縮めた。
私は二人の間に入った。
「では先生を呼び、別々にお話を聞いていただきましょう。殿下も、噴水の裏から何をご覧になったかお話しくださいませ」
「俺は悲鳴を聞いて駆けつけたのだ!」
「その前からマントが見えておりましたわよ」
噴水のそばで、誰かが吹き出した。
殿下の耳が赤くなる。パウラは蓋を握ったまま、今度は私ではなく殿下を見上げていた。
「お姉様、そんなに責めなくても。私、驚いてしまって……」
「驚いて、私が壺を振ったことになったの?」
返事はない。
私は裾のレースをつまみ上げた。こちらにもインクが一滴、落ちている。
「三晩です」
「え?」
「これを直すのにかかった時間です。汚した責任まで私に押しつけないでください。もう縫い直しませんから」
パウラの顔がくしゃりと歪んだ。
「そんな、お母様に言いますわ!」
「どうぞ。インク壺の蓋もお見せになって」
ひそひそ声が広がっていく。
殿下はパウラを立たせ、私を睨みつけた。
「覚えていろ、アグネス! 貴様のその態度、決して忘れぬぞ!」
それはこちらの台詞だった。
二人が去った後、私は証言してくれた生徒に礼を言った。彼女はほっとした顔で座り直し、冷めたパンをかじった。
私も、昼食を買えばよかった。
広場の端のベンチに腰を下ろすと、肩が重く落ちた。
幼い頃、継母とその連れ子のパウラが家に来た。以来、私の失敗は何倍にも膨らませて父に伝えられ、パウラの失敗は私が片づけることになった。
文句を言わせないように勉強した。礼儀作法も、刺繍も、家政も。
おかげで王子の婚約者に選ばれたけれど、増えたのは仕事と、私に命令できる人間だった。
「私を悪役にするなら、もっと上手くやってください……。あんな茶番に付き合うくらいなら、寝たいわ」
「ぶっ!」
植え込みの向こうで、誰かが吹き出した。
見れば、黒い軍服の男が口元を手で覆っている。胸の紋章を見て、私は慌てて背筋を伸ばした。
「ロルフ・フォン・アイゼン卿」
「悪い。最後のひと言がよ」
近衛騎士団長。平民出身の叩き上げで、一代で伯爵位を賜った男だ。
王宮で姿を見かけたことはある。だが、こんなに近くで話すのは初めてだった。短く刈った黒髪に、鋭い琥珀色の目。大柄な身体のせいで、隣のベンチまで小さく見える。
「お仕事中ではありませんの?」
「卒業行事の警備の下見だ。お前が先生を呼ぶと言ったあたりから見てた。あの子の証言は、俺からも学園長に伝えとく」
パンを食べていた生徒の方を顎で示され、私は少しだけ息をついた。
殿下が後から彼女に当たらないか、それが気にかかっていたのだ。
「それは、お願いいたします」
ロルフ卿は笑うのをやめ、声を落とした。
「もう一つ。さっき殿下の従者が、明日の放課後は西階段を使わせるなと用務員に言ってた。パウラ嬢がお前を呼び出すそうだ。行くなら、教員を立ち会わせろ」
「ご親切にどうも。階段から突き落とされた、とでも言うつもりかしら」
「ありそうで笑えねえな。警備の巡回にも伝えておく」
何気なく聞いたつもりだったのに、声が固かった。
私はうなずき、ベンチから立った。その拍子に少しよろけると、大きな手が肘を支えた。
「まず飯を食え。説教は腹に何か入れてからでもできる」
「説教が趣味のように仰らないでください!」
ぐう、と腹が鳴った。
ロルフ卿の肩がまた震えたので、私は今度こそ睨みつけた。




