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第7話 二行目の代償

妹の工房は、燃えていなかった。


黒い煙だけが、煙突ではなく二階の窓から噴き出していた。


「ニナ!」


リズは扉へ駆け寄った。


取っ手を引く。


開かない。


鍵がかかっているのではない。


扉の向こうから、重い物で塞がれている。


「お姉ちゃん?」


返事があった。


生きている。


リズの膝から、一瞬だけ力が抜けた。


すぐに扉を叩く。


「怪我は?」


「ない!」


「煙は何ですか」


「インク乾燥炉を倒された!」


「火は?」


「消した!」


答えるたび、工房の中で金属のぶつかる音がした。


カイが遅れて路地へ入ってくる。


その後ろを、短い脚でハンが走っていた。胸に四つの印を抱え、石畳の段差へ何度もつまずきながら、それでも二人から離れない。


工房の正面には、公爵家の紋章をつけた馬が三頭つながれている。


ヴォスが南教会へ連れてきた騎士のうち、消えていた三名だ。


一人は工房の裏へ回っている。


もう一人は窓から中へ入ろうとしている。


最後の一人は、斧で裏口を壊していた。


ヴォスは確かに、何もしていない。


ただ部下へ紙を買いに行かせただけだ。


斧を持たせて。


「王宮婚姻監査局です」


カイが監査証を掲げた。


「ただちに作業を中止してください」


窓へ足をかけていた騎士が振り返る。


「公爵家の正式な業務だ」


「業務内容は?」


「印刷用紙の購入」


「窓から?」


「店主が応じない」


「購入価格は提示しましたか」


騎士は黙った。


カイは順番に確認する。


「発注書は?」


返事はない。


「商取引の立会人は?」


返事はない。


「斧は?」


裏口の騎士が、斧を背中へ隠した。


刃の部分だけが肩から出ている。


「樹木の購入だ」


「先ほど、印刷用紙と」


「どちらも木から作る」


カイが目を閉じた。


怒っている時ほど、彼の顔から表情が消える。


「では、順番に事情を――」


「時間がありません」


リズは遮った。


工房の中にはニナがいる。


騎士たちはまだ命令を実行しきっていない。


尋問をして、証拠を集め、正式に拘束する。


その手順では遅い。


リズは騎士の腰を見る。


剣。


ヴォス家の家紋が刻まれた鞘。


馬具にも同じ紋。


斧の柄にも、財産管理用の銀糸が巻かれている。


騎士個人の物ではない。


すべて、公爵家の所有物だった。


「ヴォス公爵から、どのような命令を受けましたか」


リズが尋ねる。


「答える義務はない」


「工房へ入った後は?」


騎士はリズを睨んだ。


「印刷原版と戸籍用紙を回収する」


「拒まれた場合は?」


「必要な手段を取る」


扉の向こうから、ニナの声がした。


「その必要な手段が斧なんだけど!」


「黙れ!」


騎士が扉を蹴った。


内側で何かが崩れる。


リズの手が、腰の訂正紐へ伸びた。


カイがその手首を掴む。


「何を書くつもりですか」


「公爵家の財産を止めます」


「差押え命令には、裁判所か王室財務局の承認が必要です」


「通常の差押えなら」


リズは騎士の剣を見た。


「婚姻被害による緊急保全は別です」


カイの目が細くなった。


リズが何を考えているのか、理解した顔だった。


「サラ夫人を《被害配偶者》として登録するつもりですか」


「先行婚姻を隠されたまま婚姻した者は、《重婚に巻き込まれた被害配偶者》として財産保全を請求できます」


「その先行婚姻は、あなたの偽造です」


「現在の台帳では有効です」


「だから使う?」


「ほかに、今すぐこの三人を止める方法がありますか」


カイは答えなかった。


正確には、答えられなかった。


騎士を一人ずつ拘束することはできる。


だが、ヴォスの命令は別の者へ引き継がれる。


三人を止めても、四人目が来る。


公爵家の財産と雇用権が動く限り、ヴォスは何度でも人を送れる。


命令を止めるには、命令するための権利を止めなければならない。


「申請者本人の同意が必要です」


カイが言った。


「サラ夫人は教会です」


「こちらへ向かっています」


リズは路地の入口を見た。


馬車が一台、速度を落とさずに曲がってくる。


御者台にはモナの二人目の元夫である船主。


荷台の扉が開き、灰色の旅装を着たサラが降りた。


その後ろから、教会書記のセドも続く。


「リズ様!」


サラは煙を見上げた。


「妹さんは?」


「中にいます。怪我はないそうです」


「私のせいですね」


「違います」


リズは即座に否定した。


ヴォスが狙ったのは、サラを助けたリズの家族だ。


原因はリズにある。


だが、それを今説明する必要はない。


必要なのは署名だった。


リズはカイの鞄から、緊急保全用紙を取り出した。


カイが止めるより早かった。


「勝手に監査鞄を開けないでください」


「返却します」


「使った後では遅い」


「ですから、時間がありません」


リズは馬車の側面を机代わりにして、用紙を広げた。


《重婚被害配偶者・暫定財産保全申請》。


正式な制度だ。


使われることはほとんどない。


重婚の発覚後、加害配偶者が財産を隠すことを防ぐため、被害者へ一時的な保全権を与える。


財産の売却停止。


預金の凍結。


使用人への解雇、処罰、配置転換の停止。


被害者の生活費と慰謝料を確保するための優先権。


サラを救うために作られたような制度だった。


実際には、存在しない先妻の記録がなければ使えない。


「内容を説明します」


リズはサラへ向き直った。


今度は、署名欄だけを示さなかった。


最初から最後まで読む。


「この申請を受理すると、ヴォス公爵家の財産は暫定的に凍結されます。公爵は財産を売却できません。使用人を解雇できません。罰金や徴兵名簿を使った報復もできなくなります」


「屋敷の使用人も守られますか」


「はい。夫人が保護対象として指定できます」


「ノアは?」


リズの声が止まった。


「職能限定仮登録になったため、公爵家の保護対象には戻りません」


サラは目を伏せた。


それでも続きを促す。


「ほかには?」


「慰謝料を確保するため、公爵の個人財産の一部が夫人の管理下へ移ります」


「私は、お金が欲しいのではありません」


「必要になります」


「何に?」


「住居、治療、使用人の保護、裁判。それから、自分で選んだ生活に」


サラは書類を見た。


「公爵は、どうなりますか」


「現在、婚姻は失効しています。財産保全が受理されれば、公爵家の事業主権と雇用指揮権も一時停止します」


「つまり?」


「生きたまま、独身、無職、自邸への立入り禁止です」


カイが口を挟む。


「無職という表現は正確ではありません。爵位そのものは残ります。ただし領地運営権、公爵家名義の雇用権、財産管理権が停止するため、実務上は何も指揮できなくなるだけです」


「無職では?」


「職位はあります」


「仕事は?」


「できません」


「記録上は無職です」


カイは反論しようとして、やめた。


工房の窓へ足をかけていた騎士が、二階へ身体を押し込もうとしている。


ニナが中から版木を投げた。


木の板が騎士の額へ当たる。


「買い物なら正面から来い!」


「暴行だぞ!」


「窓から入る客に贈答品を渡しただけ!」


ニナは無事だった。


声を聞けば分かる。


だが、次に投げられる物が残っているとは限らない。


リズはサラへペンを渡した。


「夫人が選んでください」


命令しない。


必要な結論を先に決めない。


少なくとも、そうしようとした。


「署名すれば、使用人たちは守られます」


付け加えた時点で、選択を誘導していることは分かっていた。


サラはペンを受け取った。


「私が管理権を持ったら、公爵と同じことができますか」


リズは意味を測りかねた。


「同じこと、とは?」


「本人が望んでいなくても、守るために命令することです」


リズは答えなかった。


サラはノアへ、保護を与えていた。


食事と住む場所と本を与えた。


同時に、彼がどんな名前で登録されたいかを尋ねず、自分の家族枠へ入れた。


必要だった。


善意だった。


それでもノアは、自分の名を自分で選びたいと言った。


「制度上は、可能です」


リズは答えた。


「では、しないように気をつけます」


サラは署名した。


自分の意思で。


右腕の傷をかばいながら、最後まで自分の手で書いた。


文書ができた。


次は印章。


セドが教会書記として持ってきた《重婚確認中》の印を見つめる。


「これを押してください」


リズが言った。


セドは用紙を受け取った。


「先行婚姻記録が偽造だと判明すれば、この保全も無効になる」


「分かっています」


「その時、使用人の保護も、夫人への財産移管も取り消される」


「分かっています」


「本当に?」


「押してください」


セドはリズを見た。


「君は正しい。今は、これでしか止められない」


リズは次の言葉を待った。


しかしセドは、でも、と言わなかった。


完全な変化ではない。


彼は正しいと認めたから規則を破るのではなく、現在の規則どおりに印を押すだけだ。


それでも聖印は、サラの署名の下へまっすぐ落ちた。


最後は社会的証人。


カイが監査官として名を記す。


「私は、この申請が偽造された婚姻記録から派生したことも、併記します」


「構いません」


「後で不利になります」


「知っています」


カイは署名した。


隠さないための署名。


救済と犯罪を同じ紙へ残すための署名だった。


ハンが申請書を受け取る。


頭部を左右へ動かす。


サラ。


リズ。


カイ。


セド。


最後に、工房の窓から半身を入れている騎士を見る。


ハンは《受理》を持ち上げた。


ばちん。


《重婚被害配偶者・暫定財産保全を受理》


真名台帳へつながる青い光が、用紙の端から石畳へ走った。


王都中の財産認証へ、一斉に命令が届く。


《ヴォス公爵家・資産移動を停止》


《個人預金を凍結》


《武器庫認証を停止》


《雇用指揮権を保留》


《使用人への解雇・処罰・強制異動を禁止》


《被害配偶者サラへ暫定保護権を付与》


魔法は、いつもの明るい声で告げた。


『おめでとうございます』


工房の窓へ入ろうとしていた騎士の剣が、鞘の中で音を立てて固定された。


「何だ?」


引き抜こうとしても動かない。


裏口の騎士が斧を振り上げる。


柄に巻かれた銀糸が光り、斧が彼の手から離れた。


石畳へ落ちる。


《凍結対象資産の使用を停止しました》


正面の騎士が馬へ乗ろうとする。


鞍の家紋が光った。


『雇用指揮権が確認できません。公爵家業務への使用はできません』


「私は公爵家の騎士だ!」


『現在の雇用状態は保留です』


ハンが胸の《保留》を一度押した。


騎士は自分の制服を見下ろした。


「我々は、解雇されたのか?」


カイが答える。


「解雇も禁止されています」


「では雇われているのか?」


「雇用状態は保留です」


「給金は?」


「資産凍結中です」


「いつ支払われる?」


「審査終了後です」


「審査はいつ終わる?」


「現時点では未定です」


三人の騎士は黙った。


武器は使えない。


馬にも乗れない。


命令権は停止。


給金も出ない。


ただし解雇もされていない。


王国は彼らを、極めて丁寧に何もできない状態へ置いた。


工房の中で、大きな物が動く音がした。


扉を塞いでいた印刷機が、少しずつ横へずれる。


隙間から、赤い頭巾が覗いた。


ニナは両頬を黒いインクで汚し、片手に短い鉄棒を持っていた。


姉の姿を確認する。


次にカイ。


サラ。


セド。


最後に、路地で立ち尽くす三人の騎士を見る。


「終わった?」


「雇用と資産を凍結しました」


リズが答えた。


「それ、いつまで?」


「監査と審査が終わるまでです」


「で、それ、誰が読めるの?」


ニナはリズの手にある保全申請を指した。


細かな文字が、紙の両面を埋めている。


欄外には注釈。


裏面には関連条文。


戸籍官であっても、読み終えるのに時間がかかる書類だ。


「必要事項は説明しました」


「この人たちに?」


ニナが騎士を見る。


一人は自分の剣を鞘から抜こうとし続けている。


もう一人は馬具へ公爵家の命令書を何度も当てている。


最後の一人は斧を拾おうとして、資産凍結の結界に指を弾かれていた。


誰も理解していない。


ニナは工房へ戻った。


すぐに、印刷機が動き始める。


がたん。


がたん。


がたん。


数分後、彼女は三枚の紙を持って戻ってきた。


中央に大きな文字がある。


《公爵の命令は止まりました》


その下へ、少し小さく、


《武器を置いて、お帰りください》


騎士たちは読んだ。


一人が剣から手を離す。


一人が馬具を置く。


一人が斧を諦める。


「そういうことか」


三人は徒歩で路地を去った。


カイが、長い申請書とニナの紙を見比べる。


「内容が省略されすぎています」


「必要な人には伝わった」


「財産凍結の範囲も、異議申立て方法も書かれていません」


「斧を持ってる人に、まず何を伝えたいの?」


カイは答えなかった。


ニナが勝ったという顔で、リズへ向き直る。


「それで、説明して」


「後で」


「私の工房が壊されかけたんだけど」


「怪我はない?」


「ない」


「炉は?」


「煙突が曲がった。版木も三枚割れた。入口の棚も壊れた」


リズは工房の中を見る。


床には黒い煤。


散乱した活字。


倒れた乾燥炉。


壁際の紙束は水をかぶり、端が波打っている。


ニナは無事だった。


だが、無傷ではない。


仕事場が傷つけられた。


姉が何をしたのか知らないまま、巻き込まれた。


「ごめんなさい」


リズは言った。


口頭の嘘は苦手だった。


謝罪も得意ではない。


「私が公爵の婚姻記録を変えたため、狙われました」


ニナは少し黙った。


「何をどう変えたの?」


「先妻がいたことにしました」


「本当にいたの?」


「いません」


「じゃあ、作ったの?」


「はい」


ニナはリズの顔を見た。


次にサラの右腕へ巻かれた布。


路地を去る騎士たち。


壊れた工房。


すべてを順番に見る。


「それで、この人は逃げられた?」


「はい」


「公爵は?」


「独身です」


「さっき仕事も止めた?」


「はい」


ニナはしばらく考えた。


「すごいね」


責める声ではなかった。


それが、リズにはかえって怖かった。


「でも、次は先に言って」


「次はありません」


カイが答えた。


リズより先に。


「この件が終われば、証拠をすべて提出します」


ニナがカイを見る。


「誰?」


「婚姻監査官です」


「共犯者?」


「違います」


「お姉ちゃんと一緒に公爵の仕事を止めたよね」


「救命のための緊急保全です」


「一緒にやった?」


カイは黙った。


ハンが《保留》を一度押した。


ニナは頷く。


「共犯者ね」


「保留です」


カイは訂正した。



差押えの確認は、その日の夕方まで続いた。


王都銀行。


公爵家の武器庫。


領地管理局。


使用人雇用台帳。


一つずつ、凍結が反映されていることを確認する。


ヴォスは異議を申し立てた。


だが聖印偽証の疑いがある者の異議は、通常より後に審査される。


自分の真実の宣誓が、自分の権利回復を遅らせていた。


公爵邸の正門は、引き続き彼を来客として扱った。


家族資格なし。


当主権限なし。


財産管理権なし。


雇用指揮権なし。


立入り許可なし。


爵位だけが残っている。


王国で最も立派な肩書を持つ、何も動かせない男になった。


サラには、公爵家の使用人を保護対象として指定する権利が与えられた。


彼女は最初に、侍女。


庭師の息子。


執事。


厨房。


馬番。


すべての名を書いた。


一人ずつ確認し、誰も抜けていないか尋ねた。


最後にノアの名を書こうとして、手を止める。


ノアはもう、公爵家の使用人でも家族でもない。


モナの徒弟だった。


「私は、あの子を守れなかったのでしょうか」


サラが尋ねた。


「昨夜までは、守っていました」


リズは答えた。


「それでは足りなかった」


「足りない制度でした」


「私のことではなく?」


リズは答えられなかった。


制度に問題がある。


それは真実だった。


同時に、サラがノアの希望を尋ねていなかったことも真実だった。


どちらか一つだけを選べば、説明は簡単になる。


人間は、台帳ほど簡単ではない。


「これから、聞けばよいと思います」


リズは言った。


サラは保護名簿を閉じた。


「聞いて、私の望みと違ったら?」


リズはペンを置く。


「待つしかありません」


口にした途端、自分にはできないことを勧めている気がした。



日が沈んだ後、モナの店の地下室へ、差押え対象となった宝石が運び込まれた。


公爵家の金庫に保管されていた、持ち運び可能な財産。


王都銀行が正式な保全庫を準備するまで、一時的にモナの地下金庫へ置く。


首飾り。


腕輪。


指輪。


宝冠。


ルビー、サファイア、真珠。


一つずつ番号を付け、リズが保全目録へ記載する。


カイは向かい側で、同じ数を独立して数えている。


「首飾り、十二」


「十二」


「指輪、二十三」


「二十三」


「耳飾り、十六組」


「十五組です」


リズは顔を上げた。


カイが一組を持ち上げる。


「こちらは片方しかありません。組ではなく、一点として数えるべきです」


「着用時に不足します」


「財産目録は実用性で数えません」


「片方だけの耳飾りを、誰が使うのですか」


「それは所有者の問題です」


モナが階段から顔を出した。


「左右で違う宝石をつければいいでしょう」


「聞いていません」


カイが答える。


「無料の助言よ」


「必要ありません」


「次から請求するわ」


モナは地下室へ降りた。


サラへ温かい茶を渡し、壊れたニナの工房の修理見積書を机へ置く。


「安くはないわね」


ニナが紙を覗き込む。


「煙突一本で?」


「乾燥炉、棚、版木、濡れた用紙。職人の夜間料金も」


「自分で直す」


「あなたが直している間、誰が印刷するの?」


ニナは黙った。


差押え財産から賠償を出すには、ヴォスの攻撃命令を証明する必要がある。


騎士たちは公爵の命令を認めていない。


正式な発注書もない。


ヴォスは、紙を買うよう頼んだだけだと主張するだろう。


修理代を得られるまで、数か月。


あるいは数年。


「私が払います」


サラが言った。


「慰謝料から」


「それは夫人の生活のためのお金です」


リズが止める。


「私を助けたために壊されたのでしょう」


「私がしたことです」


「でも、私は助かった」


サラとリズの言葉がぶつかる。


どちらも譲らない。


カイが目録の筆を置いた。


「ここまでにしましょう」


リズは宝石を数える手を止めた。


「何がですか」


「すべてです」


地下室が静かになった。


カイは、差押え目録。


七つ穴の偽造婚姻。


サラの保全申請。


自分の遅延報告。


机の上へ順番に並べる。


「サラ夫人は公爵から離れた。使用人への報復も止めた。ノアは徒弟として暫定登録された。ニナさんの工房を襲った騎士も、もう動けません」


「まだヴォスの異議が残っています」


「それも含めて、正式な調査へ渡します」


カイはリズを見る。


「今なら、自首できます」


ニナが息を呑んだ。


サラは目を伏せる。


モナだけが、茶を飲み続けている。


「すべての証拠を提出する。婚姻記録を偽造したことも、聖印宣誓を衝突させたことも、差押えに利用したことも認める」


「サラ夫人の婚姻失効は?」


「偽造は取り消されます。ただし、今回明らかになった暴力と脅迫を根拠に、正式な保護と離縁手続きへ移せる」


「どれくらいかかりますか」


「仮保護は継続できます。離縁の確定は――」


「どれくらいですか」


カイは答えた。


「数か月」


「その間、ヴォスの権利は?」


「監査対象として制限します」


「完全には止まらない」


「止めるための法的措置を取ります」


「間に合わなければ?」


カイの眉が動く。


「今は、間に合わせた後の話です」


「元へ戻せば、同じことです」


「戻しません」


「あなた一人で保証できますか」


カイは言葉を止めた。


一人では保証できない。


だから法と証拠を積み重ねる。


それが彼の答えだった。


「情状酌量を求めます」


カイは続けた。


「救命のためだったこと、制度に合法的な救済がなかったこと、私自身が一部へ関与したことも証言する」


「あなたも処罰されます」


「当然です」


「監査官を続けられなくなるかもしれません」


「それも審査されます」


リズは机の上の書類を見る。


自首。


内部告発。


合法的な救済制度の設置。


カイは、安全な出口を探している。


罪を消す出口ではない。


犯した罪だけを引き受け、救った者を可能な限り守る出口だ。


「分かりました」


リズは言った。


カイが少しだけ肩の力を抜いた。


「明朝、監査局へ行きます」


「今夜のうちに、目録を終わらせましょう」


「はい」


リズは再び宝石を数え始めた。


カイも筆を取る。


モナが地下金庫の鍵を持ち、ニナは修理見積書を畳んだ。


サラは使用人保護名簿を胸へ抱えている。


誰も、リズの返事を疑わなかった。


リズ自身も、嘘をついたつもりはなかった。


明朝、監査局へ行く。


その時点では、本当にそうするつもりだった。


目録の最後に、小さな革袋が残った。


中には、持ち主を特定する家紋のない宝石が入っている。


金貨へ換えやすい、小粒の石。


赤が七つ。


青が五つ。


無色が十一。


公爵家の公式財産目録には記載がない。


ヴォスが、台帳へ残さず動かすために保管していた資産らしい。


「無記名宝石、二十三点」


リズが言った。


カイは自分の側で数える。


「二十三点」


リズは保全目録へ書いた。


《無記名宝石 二十三点》。


カイが確認印を押す。


次の箱を閉じるため、背を向けた。


その瞬間。


リズは、目録の数字へ細い線を一本足した。


二十三が、十三になる。


書き直したのではない。


最初から十三と書いたように、筆圧とインクの流れを整える。


彼女にとっては、三十年前の署名を再現するより簡単だった。


残り十点を、机の下へ落とす。


腰の事務鞄へ入れる。


手は震えなかった。


ニナの工房修理。


サラの生活費。


ノアの正式な登録。


監査が始まれば、すべてに時間がかかる。


制度が追いつくまでの資金が必要だ。


自分のためではない。


そう考えた。


だが、その宝石を誰に使うかは、リズが決める。


サラにも。


ニナにも。


カイにも知らせずに。


救う相手を選ぶための金だった。


カイが振り返る。


「終わりましたか」


「はい」


リズは十三点の目録を差し出した。


カイは全文を読む。


署名前に、必ず全文を読む男だった。


数字も確認する。


革袋の中も数える。


十三点。


何も間違っていない。


リズが十点を抜いた後の世界では。


カイは署名した。


「これで、明朝提出できます」


「はい」


口頭の嘘ではなかった。


目録は提出できる。


真実が十点不足しているだけだ。



夜も深くなった頃。


地下室の片づけが終わり、ニナとサラが上階へ移った。


カイは監査局へ提出する書類をまとめている。


モナは地下金庫へ鍵をかけた。


リズの事務鞄には、十点の宝石が入っている。


明朝、自首する。


それまでに、この宝石を戻すこともできる。


リズは何度も、そう考えた。


店の来客鈴が鳴った。


『ご結婚ですか?』


こんな時刻だった。


モナが階段を見上げる。


「閉店札は?」


「出ています」


ノアの声が上から返る。


『ご結婚ですか?』


鈴がもう一度尋ねた。


女の声が答える。


「違います」


足音が、地下へ続く階段を下りてくる。


現れたのは、サラではない。


見知らぬ女性だった。


地味な外套。


左頬を髪で隠している。


歩くたび、片足をかばっていた。


モナが何も尋ねないうちに、女性は机へ宝石を置いた。


大粒の緑石。


指輪から無理に外したらしく、台座の金属が残っている。


リズの事務鞄の中で、無記名の宝石が小さく触れ合った。


女性はリズを見た。


誰かに教えられて来た顔ではない。


噂だけを頼りに、最後の場所を探し当てた顔だった。


「公爵夫人を自由にした戸籍官は、あなたですか」


カイの手が、提出書類の上で止まった。


リズは答えなかった。


女は机の宝石を、リズの方へ押した。


「これで足りなければ、ほかにも持ってきます」


外套の袖口から、紫色の痣が見えた。


「次は」


女は言った。


「私の夫を消して」


第7話をお読みいただき、ありがとうございます。


一行目でヴォス公爵を夫ではなくし、二行目で財産、雇用、命令権まで止めたリズ。サラ、ノア、ニナ、使用人たちは守られ、公爵は生きたまま、独身で何も動かせない男になりました。


ここで証拠を提出すれば、まだ「一人を救うために罪を犯した戸籍官」として戻れるかもしれません。しかしリズは、差押え財産から十点の宝石を誰にも告げずに抜き取りました。それは私欲のためではなく、次に救う相手を自分で選ぶための資金です。だからこそ、より危うい一歩でもあります。


そして地下室には、もう次の女性がたどり着きました。次話では、カイが自首、内部告発、合法的な救済窓口という最後の出口を示します。それでも裁判まで生きられない依頼人を前に、リズはどちらを選ぶのでしょうか。


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