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第76章  もし、ここに――増えた選択肢

水曜日、いつも通りの公休日。


午後、部屋にいても落ち着かず、桜は立ち上がる。


本日の護衛担当はリーゼだ。


扉の前に立つリーゼに声をかける。


「診療所に行っても、大丈夫ですか」


リーゼは腰の通信石に触れる。


「サクラ様、診療所へ移動します。通常動線です」


短く報告を入れ、応答を確認してから頷いた。


「問題ありません」


リーゼが先に扉を開ける。


診療所では、最近、決まった時間にイルゼが喘息薬の試行をしている。


奥に顔を出し、桜は少し視線を落としたまま言う。


「少し、落ち着かなくて。何か、お手伝いがあれば……」


イルゼは手を止めない。


「それでしたら、記録をお願いできますか」


理由は聞かない。


桜は向かいに座り、紙と筆を受け取る。


リーゼは診療所の出入り口付近に立ち、警戒に入った。


作業台には乾燥させた薬草と乳鉢、霧化器が並ぶ。イルゼは葉を砕き、量を量り、水を加えて練る。粉末の細かさを確かめ、再びすり潰す。


「粉砕は、もう少し細かい方がよさそうですね」


桜は頷き、筆を動かす。


薬草の種類、粉砕の程度、霧化後の刺激の有無など、イルゼの言葉を記載していく。


この世界の文字を、ある程度まで書けるようになっていた。


筆先が止まる。


「どうしましたか?」


顔を上げる。


「あ、すみません。これじゃ、手伝いになってないですね」


慌てて筆を動かす。


今朝のことが、頭から離れなかった。


――――――――――


今朝、結界修正を終えて部屋に戻ったあと、リエットが訪ねてきた。


「巫女交代のことについて、サクラ様にお聞きいただきたいことがございます」


部屋に通し、桜が椅子をすすめる。


リエットは腰を下ろし、姿勢を正したまま一呼吸おいた。


「まず、これまでの前提を確認させてください」


桜はわずかに視線を上げる。


「サクラ様がこの世界に残る方法は、一つしかございませんでした」


淡々とした声音だった。


「巫女を交代する前に、ご自身の意思で残留をお選びになること。約1か月、この世界にとどまることで魂は完全に定着いたします」


桜は小さくうなずく。


「その場合、元の世界へは二度と帰ることはできません。次の異世界の巫女が召喚されるまでは、巫女を務めていただきます。そして、新たな巫女が定まった時点で、サクラ様は巫女ではなくなります」


改めての確認だった。


「一方で、巫女交代を受け入れた場合――サクラ様とこの世界との接続は失われます。その後、リン様が新たな巫女としてこちらへ召喚されることとなります」


それが、これまでの決まり。


桜は何も言わない。


日本へ帰れば、もう戻れない。


この世界に残れば、日本へ帰れない。


そのどちらかだと思っていた。


リエットはそこで、わずかに声を落とした。


「ですが――それとは別の可能性が、理論上、確定いたしました」


桜の指先が、膝の上でわずかに動く。


「巫女交代後、約1か月の魂の余韻期間がございます。その間であれば、サクラ様を再びこちらへお呼びすることが可能でございます」


桜は瞬きをする。


「……呼び戻す?」


「はい。巫女ではない立場で、です」


部屋の空気が、かすかに張りつめる。


「その場合、年に1回のみではございますが、固定された約1週間、サクラ様の世界へ帰還することが可能となります」


「ただし、帰還できる時期は固定されます。翌年も同じ時期の同じ1週間のみとなります。自由な往還ではございません」


「でも、里帰りが可能ということですか」


「えぇ」


桜は視線を落とす。


一択だった未来に、もう一つの線が引かれる。


1週間の里帰りが可能、それは今の桜の心を揺らすのには十分な言葉だった。


リエットは続けた。


「そして、この往還を安定させるには、リン様のお力が不可欠です。リン様が完全に目覚め、その力が定着してこそ成立いたします」


淡々とした説明。


「もっとも、その点につきましては、あまり心配しておりません」


桜がわずかに顔を上げる。


「リン様は、3年間、リン様なりに結界と向き合ってこられました。サクラ様と交代する時まで、手を離すことはありませんでした」


それは、そばで見続けてきた者の言葉だった。


「再召喚の時点で、目覚めておられるはずです」


しばらくの沈黙のあと、桜は小さく口を開いた。


「……なぜ、私に?」


リエットはまっすぐに桜を見る。


「貴方は、巫女でなくとも、この世界で十分に根を張っていける方だと、私は思いました」


穏やかな断言。


「そして、迷っておられるようにも見えました」


「余計でしたでしょうか」


リエットの声はやわらかい。


「サクラ様を悩ませてしまうことは承知しております。ですが、理論が確定した以上、貴方には知る権利がございます。そう判断いたしました」


それ以上、リエットは何も言わなかった。


桜を見つめるその表情は、やわらかい。


――――――――――


「これ、どう思います?」


イルゼの声で、桜は顔を上げる。


霧化器に取り付けられた試薬から、かすかに薬草の匂いが立つ。


「前回より、刺激は弱いと思うのですが」


「……はい。少し、穏やかです」


答えながら、桜は筆を持ち直す。


だが、また手が止まった。


イルゼが静かに問いかける。


「今日は、本当にどうしましたか」


桜は視線を落とす。


「あの……もし、ですけど」


言いながら、自分でも何を確かめたいのか分からなかった。


「私が、ここに長くいられたら……」


言葉が途切れる。


「……どう、思いますか」


イルゼは瞬きをする。


「どう、とは?」


問い返す声は変わらない。


桜は首を振る。


「あ、やっぱりいいです。忘れてください」


少しだけ早口になる。


筆を持ち直し、視線を紙に落とす。


作業台の上では、乳鉢の音が続いている。


イルゼはそれ以上問わない。


「では、こちらも記録をお願いします。粉砕後、吸入5分。刺激感、軽度」


桜は頷き、書き留める。


リーゼが、出入り口の位置からこちらを見た。


視線が一瞬だけやわらいだ。

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