第61章 夜を持ちこたえる ――削られていく力の中で
火曜日の朝。
結界の部屋に入った瞬間、空気の張り詰め方がいつもと違うと分かった。
リエット様の隣に、神殿長が立っている。
「以前お伝えしていましたね。大国の事情に我が国が巻き込まれていると」
「今晩、大国にて、結界の揺らぎを助長する可能性のある事態が起きます」
簡潔な説明だった。
本日の結界修正は夕刻。
そのままリエット様とともに、夜通し警戒に入る。
制御の中心はリエット様が担い、私は補助に回る形だ。
診療所の勤務をお休みし、日中は必ず休息を取るようにと念を押された。
「規模が大きい場合、申し訳ありませんが、サクラ様の力を使い切る可能性も否定できません」
リエット様が申し訳なさそうに告げる。
「大丈夫です。以前、一度だけ経験しましたが、熱が出る程度でしたし」
私は頷いた。
力を使い切ること自体は、怖くない。
多少体が重くなる。熱が出るかもしれない。
しばらく、結界の修正に入れなくなる。
問題は、その間だ。
揺らぎが収まらなければ。
乱れが広がれば。
広がった揺らぎを抑えるには、やはり異世界の力も要る。
影響が出るのは、現場だ。
人が傷つく。
騎士たちの負担が増える。
クロトさんたちが、今以上に危険な場所に立つことになる。
それだけは、避けたい。
部屋を出ても、胸の奥が落ち着かなかった。
今晩、何かが起きる。
その場に立つのは、クロトさんたちだ。
無事でいてほしい。
それだけでいいはずなのに。
もし、私の力が足りなかったら。
もし、揺らぎが広がってしまったら。
私の力が弱いせいで、余計な負担をかけたら。
最悪の想像はいくらでも浮かぶ。
首にかけている守り石を、無意識に触る。
凜が目覚めていれば。
そう思いかけて、首を振る。
交代すら出来ないのに、こんなことを考えても、今夜は変わらない。
自分が足りないとか、
もっと強ければとか、
そんなことを考えても、揺らぎは止まらない。
昼過ぎ、横になる。
眠らなければならない。
今晩、全力が必要となるなら、体力をできるだけ温存しなきゃ。
目を閉じる。
胸の奥の不安は消えない。
リエット様もいる。
私は一人ではない。
そう、自分に言い聞かせる。
夕刻。
私は結界の部屋へ向かった。
扉の前で、深く息を吸う。
今、この世界で異界の力を注げる巫女は、私しかいない。
だからこそ、出来る限りのことをやる。
私は、護衛騎士が開けた扉の向こうへ足を踏み入れた。
――――――――――
■結界と桜とリエットと
結界の部屋の空気は、昼間とは違う緊張を孕んでいる。
リエット様はすでに制御位置に立ち、静かに結界を見つめていた。
一時間ほど経った頃。
「来ます」
その一言と同時に、結界の表面に細い波紋が走る。
最初の揺らぎは、小さかった。
私はすぐに補助に入る。
裂け目と呼ぶほどではない、糸のような乱れ。
それを縫う。
押さえ、重ね、補強する。
大きなうねりはリエット様が抑えている。
私は、その隙間を埋める。
思ったよりは、ひどくない。
胸の奥で、ほっと息をつく。
「この程度であれば、制御可能です」
リエット様の声は揺らがない。
私は頷き、再び結界へ意識を集中させた。
だが、揺らぎは止まらなかった。
小刻みに、何度も、何度も。
波紋が生まれ、消え、また生まれる。
そのたびに、私は縫う。
縫って。
押さえて。
重ねる。
時間の感覚が薄れていく。
派手な崩壊はない。
だが、細い乱れが絶え間なく続く。
じわじわと、力が削られていくのが分かる。
額に汗が滲む。
呼吸が浅くなる。
「サクラ様、少し無理をなさっています。休憩を」
リエット様の声が届く。
「大丈夫です。このまま続けさせてください」
リエット様は私の目を一瞬見つめ、それ以上は何も言わなかった。
大きく崩れていない。
それだけで、救われる。
――きっと、クロトさんたちも頑張っている。
揺らぎは数時間続いた。
やがて、波の間隔が少しずつ伸びていく。
小さな波紋が、ひとつ。
ふたつ。
そして。
ぴたりと、止まった。
結界は、静かだ。
「……収まりました」
リエット様の声に、張り詰めていたものがほどける。
終わった。
その瞬間、足元の感覚がふっと遠のいた。
あれ、と思う間もなく、視界が白く滲む。
力を、使い切ったのだと理解する。
体が支えを失う。
「サクラ様!」
リエット様の声が、遠くで響いた。
大丈夫です、と言おうとしたが、声にならない。
疲労が体を満たす。
それでも、どこか満ち足りた感覚があった。
意識が、静かに沈んでいく。
――――――
目を開けると、外はわずかに白み始めていた。
結界の部屋ではない。
自室の天井だ。
額に、冷たい感触。
「……微熱ね」
穏やかな声。
視線を向けると、そこにいたのはマルタさんだった。
落ち着いた表情で、濡らした布をそっと取り替えている。
「クラウス先生もさっきまでいたのよ。大したことないからって」
「ただの力の使い過ぎ。体がこうなるのは当たり前ね」
私は、ゆっくり息を吐く。
「……すみません」
「謝るのは違うでしょ」
そう言って、桜の額を軽くぽん、と叩く。
「それだけ頑張ってくれたってことよ。もっと胸を張りなさい」
「ありがとうございます」
その言葉に、胸の奥の力が抜ける。
体は重い。
頭も、まだぼんやりしている。
それでも。
何とか、持ちこたえられた。
「落ち着くまで近くにいるから。ゆっくり休みなさい」
私は感謝の気持ちをこめて小さく頷いた。
瞼を閉じる。
結界は守られた。
クロトさんたちも、きっと。
そう思いながら、私は再び眠りに落ちた。




