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第62章 退くという選択――夜の終わりに差すもの

誰も動かなかった。


剣は下ろされたまま。だが緊張だけは空気に張りつき、まだ一瞬も緩んでいない。


王は一歩、前へ出た。誰の支えも受けず、自らの足で。


回廊に横たわる兵たちを見下ろす。呻き声はある。血も流れている。だが、奪われた命はない。


その事実が、まず王の胸に刺さった。


甥は、剣を抜かなかった。


総司令官が前へ出ようとする。


「陛下、いまなら――」


「控えよ」


低い声だった。怒りはない。ただ、迷いを断つ決意だけがあった。


参謀総長は視線を落とす。ここで押し返せば、流れるのは同じ国の兵の血だ。勝ち負けは、すでに決している。


王も理解していた。甥の背後には、軍中枢の一部がある。それでも、まだ引き返せる余地は残っている。


「止めに来た、と申したな」


問いに、アレクシオスは静かに頷く。


王はゆっくりと言葉を紡いだ。


「余は、守ろうとした」


誰に向けたものでもない独白。


「兄と比べられようとも。重臣が離れようとも――余の思う通りに進めれば、この国は崩れぬと信じていた」


回廊の空気が、わずかに変わる。


「異論は迷いを生むだけだと。揺らぎは断ち切ればよいと。余が正しければ、国も正しくあると――そう思っていた」


前王であり、兄でもある。名君と呼ばれ、民に愛された男。そして、アレクシオスの父。


王は、その影の中で即位した。


“先王ならば”。


違いを示さねばならぬと焦った。強くあらねばならぬと。揺らがぬ王であらねばならぬと。


だが、強さを示すことに傾きすぎた。


疑いを許さず、反論を削ぎ、秩序を保とうとした。その果てに、いつしか恐れで縛る形になっていた。


王は甥を見る。


「お前は、余が間違っていたと言うのか」


「申しません」


即答だった。


「陛下は、陛下のやり方で守ろうとされた。ただ――」


アレクシオスは目を伏せる。


「お一人で背負いすぎておられました」


沈黙が落ちる。


王は初めて視線を下げた。止める者がいなかったのではない。止める声を遠ざけたのは、自分だったのかもしれぬ。


「……そなたは、余を退けるか」


「退いていただきたいと思っております」


迷いのない答え。


だが、アレクシオスは続けた。


「排するつもりはありません」


顔を上げる。


「私は未熟です。叔父上のお力も、総司令官、参謀総長のお力も必要です」


総司令官が息を呑み、参謀総長の目がわずかに揺れる。


「処罰は望みません。いまは誰かを断罪する時ではない。皆で立て直す時です」


王は甥を見つめる。


奪うのではない。壊すのでもない。渡そうとしている。


若さゆえの甘さか。それとも、自分にはなかった強さか。


王は、ゆっくりと告げた。


「……余は退く」


空気がわずかに震える。


「軍制は再編する。総司令官、参謀総長は職を解かれる」


二人の表情が固まる。


「だが、責を問うつもりはない。余もまた退くのだ。責は等しくある」


総司令官は膝をつき、参謀総長も深く頭を下げた。


王は最後に言う。


「だが、そなたの手を拒むことはせぬ」


確定の声だった。


アレクシオスは深く頭を下げる。


若い兵。古参の近衛。血に濡れた床。


まだ、戻せる。


夜はまだ明けぬ。だが、この夜は終わる。


「皆の傷の手当てを頼む」


最後の指示を出し、王は踵を返す。


その背は、最後まで王であった。

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