第54章 喘息治療の勧め―――夜間発作と小さな前進
■夜間発作
夜中だった。
静まり返った桜の寝室に、かすかな音が走る。
エリアナの部屋に備え付けられた紐が引かれた合図だった。
隣室で休んでいた桜は、音に反応してすぐに体を起こした。
羽織っていた上着を掴み、足を通す。
頭の中は、もう切り替わっていた。
扉を開けると、護衛の騎士がすでに動いているのが見えた。
言葉は交わさない。
互いに、状況が分かっている。
エリアナの部屋に入ると、彼女はベッドに上体を起こしたまま、浅く息をしていた。
肩が小さく上下している。
「……大丈夫。もう、薬は飲みました」
桜が近づくと、エリアナはそう告げた。
声は落ち着こうとしているが、呼吸は明らかに苦しい。
桜は頷き、まずは手短に確認する。
内服の時間、量、飲み残しがないこと。
胸の音と、呼吸の間。
「今から、薬霧器を使いましょう」
初めてのことだった。
エリアナも、少しだけ目を見開く。
準備はすぐに整った。
桜が吸入口を手に取り、ゆっくりと位置を調整する。
「深く吸おうとしなくて大丈夫です。
楽な呼吸で、ここに当ててください」
機器が動き出すと、細かな霧が静かに立ち上る。
部屋の中に、かすかな薬の匂いが広がった。
しばらくして、エリアナの呼吸が変わる。
肩の動きが、少しずつ落ち着いていく。
「……息が、入りやすいです」
その言葉に、桜はようやく小さく息をついた。
「よかった。もう少しだけ、このまま続けましょう」
薬霧器が動作を終えるころには、苦しそうだった呼吸音は消えていた。
夜の静けさが、部屋に戻る。
桜は一通り様子を見届けてから、部屋の外で待機している護衛に声をかける。
緊急連絡が必要な状況ではない。
「今夜は、このまま休んでください。
また苦しくなったら、すぐ紐を引いて」
エリアナは、静かに頷いた。
桜は部屋を出ると、扉の前で一度だけ足を止める。
よかった、と安堵のため息をついた。
――――――――――
■クロトへの報告
結界調整を終え、王宮へ戻る途中だった。
人の流れが一段落したところで、桜はクロトに声をかける。
「クロトさん、昨夜の件ですが」
「はい」
クロトは歩みを緩めるだけで、立ち止まらない。
発作があったこと自体は、すでに護衛から報告を受けているはずだった。
「発作そのものは、部屋担当の護衛の方から上がっていますよね」
「はい。概要は把握しています」
「薬は指示通り服用していました。ただ、呼吸が少し苦しそうだったので、薬霧器を使いました。
反応は良くて、すぐ落ち着いたので、医師は呼んでいません」
「分かりました」
必要な範囲での確認だけだった。
「それで、今朝の体調を見て、エリアナ様と話して、今日はお休みしていただくことにしました」
そこが、新しい判断だった。
クロトは一拍置いてから、頷く。
「承知しました。診療所には?」
「これから、私から直接伝えます」
「お願いします」
「はい」
それだけで話は終わる。
桜は軽く頷いて、元の歩調に戻った。
――――――――――
■クラウス医師への報告
桜は、診療所へ着くと、すぐにクラウス医師のもとを訪ねた。
「先生、少しよろしいですか」
「いいよ」
クラウスは手元の書類から視線を上げ、穏やかに応じた。
すでに大事に至らなかったことは把握しているはずだが、対応した看護師として、昨夜の出来事を簡潔に伝える。
夜間に発作があったこと。
すでに内服は済んでいたこと。
初めて薬霧器を使用し、症状が速やかに改善したこと。
その後、再燃はなかったこと。
クラウスは、途中で口を挟むことなく聞いていた。
「……大したことない発作で良かった」
そう言って、ホッとした顔をする。
「今朝の調子は?」
「落ち着いていますが、今日はお休みしていただくことになりました」
「それでいい」
少しして、薬師のイルゼが合流した。
薬霧器の管理を任されている彼女も、昨夜の使用については把握している。
「昨夜、初めて薬霧器を使用されたと伺いました。
動作や反応に、問題はありませんでしたか?」
「はい。操作も反応も、特に気になる点はありませんでした」
桜が答えると、イルゼは桜が持参した点検記録に目を通しながら、静かに頷いた。
「それでしたら、安心いたしました。
使用後の管理についても、特に問題はありません」
ひと通り話が終わると、クラウスが椅子から立ち上がった。
「じゃあ、診察に行こうか」
「はい」
イルゼも一礼し、それに続く。
三人で診療所を出て、王宮の廊下を進む。
エリアナの部屋へ向かいながら、桜は昨夜の様子を思い返す。
呼吸が落ち着いていくまでの時間。
薬霧器の反応。
本人の表情。
――本当、すぐに良くなってよかった。
扉の前で足を止め、クラウスが軽くノックをした。
「失礼いたします」
回診は、これからだ。
――――――――――
■診察後の雑談
「薬霧器、昨夜は本当に助かりました」
エリアナがそう言うと、室内の空気がわずかに緩んだ。
クラウスは一度頷いてから、きちんとした口調で答える。
「お役に立てたようで、何よりです。
発作が大事に至らなかったことは、報告を受けて確認しております」
それ以上、踏み込んだ評価はしない。
「大国でも、ああいうものが一般的になればいいと思います」
エリアナは静かに続ける。
「私自身のため、というより……
同じように喘息で困っている人は、たくさんいるはずですから」
その言葉に、クラウスはすぐには答えなかった。
軽く肯定できる話ではないと、誰もが分かっている。
「確かに、そのお気持ちは理解できます」
慎重に言葉を選びながら、クラウスが口を開く。
「急な発作に対応できる手段が他国でも増えることは、医療としても望ましい方向ではあります」
横で話を聞いていたイルゼが、控えめに続けた。
「噴霧という形自体は、有効ですからね。
ですが、薬の濃度や使用方法をきちんと決めないと、安全に使えません」
その言葉には、薬師としての重みがあった。
少し間を置いて、桜が思い出したように口を挟む。
「そういえば、私のいた世界では、薬霧器はもっと小型で、個人用が一般的でした」
全員の視線が、自然と桜に集まる。
「喘息のある人は、ほとんど全員が持ち歩いています。
発作が出たときに、すぐ使えるように」
「個人用、ですか」
イルゼが、興味深そうに繰り返す。
「薬も、気管を広げるものだけじゃなくて、炎症を抑える目的のものも、噴霧で使われていました」
「発作を起こしにくくする、ということだね」
それは桜に向けた、クラウスの確認だった。
エリアナは、少し身を乗り出す。
「もし可能であれば……
私がこちらにいる間、私の体で試していただいても構いません」
その瞬間、わずかな沈黙が落ちた。
誰も、その言葉を軽く受け取らない。
クラウスは一拍置いてから、はっきりと答える。
「安全が確保できる範囲で、という前提が絶対条件になります。
王女殿下のお身体に、少しでも不利益が生じる可能性は、許容できません」
「承知しています」
エリアナは、即座に頷いた。
「それでも、同じ喘息の方の助けになるなら、私にできることはしたいのです」
イルゼが、そこで一線を引く。
「噴霧薬の調合を試していただくわけにはいきませんが、小型化が可能であれば、使用感を見ていただくことはできそうです」
「上層部の許可も必要になりますが……」
クラウスが補足すると、エリアナは静かに頷く。
「はい。もちろん無理は申しません。
難しいのであれば、他の形で協力させてください」
そのやり取りを聞きながら、桜は小さく息をついた。
――思いつきの話だったはずなのに、思った以上に、前に進みそうだ。
回診室を出るころには、薬霧器の今後の話は、すでに「可能性」を検討する段階に入っていた。




