第52章 静かに整う ―― 第一歩
朝の王宮診療所は、いつも通りの慌ただしさだった。
外来の準備、回診の確認、机の上を行き交う書類。
特別なことは、何もない。
桜は自分の机に向かいながら、時計を一度だけ確認した。
今日は、新しい人が来る日だ。
入口の方で、人の動きが止まる。
マルタが一歩前に出て、診療所全体に声をかけた。
「皆さん、少し手を止めてください」
職員たちの視線が集まる。
その隣に、見慣れない女性が立っていた。
「今日からしばらく、こちらで文書業務を手伝ってくださる方です」
穏やかな口調で、簡潔に続ける。
「エリナ・ルーヴェンさん。
大国に近い、国境沿いの町の貴族の方で、
王宮に滞在する間、診療所の書類整理を中心に担当していただきます」
女性が一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「エリナ・ルーヴェンと申します。
書類整理を中心にお手伝いさせていただきます。
至らぬ点もあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
過不足のない挨拶だった。
職員たちは軽く会釈を返し、ほどなくそれぞれの作業へ戻っていく。
特別な反応はない。
桜は、胸の奥でそっと息を吐いた。
――本当に、ばれないのかな。
控えめな服装。
眼鏡と、色を抑えたウィッグ。
それでも、桜の目には、エリナがどこかきらきらして見えた。
気づかれてしまうのではないかという不安が、完全には消えない。
「サクラ、あとで作業場所を案内してあげて」
マルタの声に、桜は我に返った。
「はい」
立ち上がると、エリナと視線が合う。
ほんの一瞬、互いに小さく頷いた。
――今は、エリナ・ルーヴェンさん。
作業場所は、診療所の一角だった。
診察スペースから少し離れた位置に、移動式の仕切りで簡単に区切られた一画がある。
護衛の騎士が常に目を配れる場所だ。
「ここが、作業スペースです」
桜は棚と机を示した。
「今日は、過去のカルテの整理だけをお願いします」
そう前置きして、説明を続ける。
「こちらの棚にあるのは、すでに診療が完結していて、今はほとんど使わなくなった記録です」
「忙しい時期にまとめて戻しただけなので、少し雑になっていて……」
桜は棚を指した。
「まずは、男女で分けてから、患者さんの名前順に並べ直してください」
「紙のカルテには、亡くなっている患者さんの場合、その旨が記載されています。
そうしたものは、こちらの箱に分けて入れてください」
棚の脇に置かれた箱を示す。
「内容の判断は必要ありません。
迷うものがあれば、あとでこちらで確認しますので、この箱に一時的に入れておいてください」
エリナはすぐに頷いた。
「分かりました。
本日は整理のみですね」
「はい。
量がありますので、少しずつ進めていただければ大丈夫です」
「明日以降は、書類作成もお願いするかもしれません」
それだけで、説明は終わった。
診療所では、それで十分だった。
午前中が終わる頃、桜はふと、作業スペースの棚に目を向けた。
そこに並んでいるのは、すでに診療が完結し、今後参照する機会もほとんどない、過去のカルテだ。
これまではやや乱雑に並べられていたはずのそれらが、いつの間にか、少しずつ整理され始めている。
男女ごとに。
そして、患者の名前順に。
亡くなった患者のカルテは、指示どおり、別の箱にまとめられ始めていた。
帰る時間が近づいても、誰一人、エリナを気に留める様子はない。
視線を向ける者もいない。
桜は、ようやく実感する。
――クロトさんの結界、本当にすごい。
そして、それ以上に。
エリナ・ルーヴェンは、ただ、淡々と、与えられた仕事をこなしていた。
初日の業務が、静かに終わる。
――――――――――
翌日から、エリナの作業は明確になった。
午前中は、これまで通りカルテ整理を行う。
午後は、書類作成を担当することになった。
桜から渡されたのは、早期動作訓練についての走り書きのメモと、現場で使ってきた簡易マニュアルが記載された資料だった。
動作訓練そのものについては、事前に桜から簡単な説明が行われている。
「業務の合間に、皆で少しずつまとめてきたものです。
現場用としては使えているんですが、勉強会用の資料としては、まだ整っていなくて」
桜はそう前置きして続けた。
「同じ医療関係者向けの勉強会になりますので、専門用語については、そのままで構いません。
ただ、判断の流れが追える形に、整理していただけると助かります」
「分かりました」
「まずは、最初に行った症例からお願いしますね」
渡したのは、一症例分のみだった。
脊髄損傷による、軽い神経麻痺。
マルタとロッテが、桜の動作訓練を見学しながらマニュアルのたたき台を作成し、その後、関わった四人が、それぞれの業務の合間に目を通し、必要な点を書き足してきた症例だ。
診療所の中では、すでに運用されているマニュアルもある。
一度経験した症例については、桜が不在の時間帯であっても、医師と連携の上、動作訓練を開始できる程度には、流れが固まっていた。
ただし、それはあくまで――現場用の言葉だった。
エリナは資料を机に置き、しばらく目を通してから、白紙を一枚、横に並べた。
いきなり書き直すことはしない。
まず、どこまでが事実で、どこからが判断なのかを、一つずつ切り分けていく。
午後の診療の合間、桜が通りかかったタイミングで、エリナが声をかけた。
「サクラさん。
この症例ですが、動作訓練を開始した判断理由は、“症状が軽かったから”ではありませんよね」
桜は足を止め、すぐに答える。
「ええ。
症状は残っていました。
ただ、悪化の兆候がなく、動かさないことで筋力が低下する方が、リスクが高いと判断しました」
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
エリナは、「悪化がなかった」という表現を、そのまま使わない。
代わりに、こう整える。
――症状の増悪は認められなかった。
――そのため、安静を続けることによる筋力低下の方が、回復を妨げる可能性が高いと判断した。
専門用語は避けない。
だが、判断の順序と理由が追える形に整えていく。
エリナが整えているのは、手技の手順ではなく、判断の考え方だった。
国立病院であれば、診療所とは比べものにならないほど症例数も経験もある。
ただ、「どの時点で動かすか」という視点が、これまで整理されてこなかっただけだ。
だから、この資料は、王宮のやり方をなぞるためのものではない。
――こういう状態であれば、早期に動作訓練を検討する、という判断もある。
――その際、何を確認し、どこをリスクとして考えたのか。
それが伝わればいい。
夕方近く、一症例分として整えられた資料を見て、桜は小さく息を吐いた。
「……分かりやすいですね」
「内容は変えていません」
「はい。
でも、これなら、勉強会でそのまま使えます」
桜は、そう言って資料を戻した。
これで、すべてが分かるわけではない。
この世界で、早期の動作訓練という考え方が、当たり前になるまでには、まだ時間がかかる。
私自身、リハビリの専門家というわけでもない。
日本で得た知識や、本で読んだことを頼りに、現場で手探りを重ねてきただけだ。
それでも。
これまでの患者さんたちが、次の誰かの判断の助けになるなら。
――――――――――
■ 近くて、遠い
結界修正を終えた帰り道だった。
夕方の空気は、少し冷えている。
王宮の廊下を歩きながら、桜は珍しく足取りが軽かった。
「クロトさん」
呼びかける声が、いつもより明るい。
護衛として少し後ろを歩いていたクロトは、すぐにそれに気づいた。
「エリアナ様、本当にすごいです。
医療のことはほとんど分からないっておっしゃっていたのに、要点を外さずにまとめてくださって……」
クロトは、短く頷く。
「ええ。
能力の高い方ですね」
評価としては、正しい。
冷静で、適切で、問題はない。
――それでも。
クロトの視線は、桜の横顔から離れなかった。
桜は、楽しそうだった。
仕事の話をしているだけなのに、誰かのことを語る声が、わずかに弾んでいる。
「必要なところだけ質問されて、あとは淡々と作業されていて。
気づいたら、ちゃんと伝わる文章になっているんです」
――距離が縮むのは、当然だ。
理屈では、分かっている。
だが。
何かあったとき、桜が傷つくことだけは、どうしても想像してしまう。
過去にも、同じ思いを抱いたことがある。
桜が、望まないものに巻き込まれるたび、自分が傍にいられない状況を、何度も思い知らされてきた。
そして――今回は、違う。
あと数週間で、クロトは大国へ派遣される。
しばらく、桜の傍にはいられない。
護衛としても、個人としても。
「……」
クロトは、無意識に歩調を落とした。
桜が気づいて、振り返る。
「クロトさん?」
「いえ。
問題ありません」
そう答えながら、心の中でだけ、はっきりと自覚する。
――嫌な予感ではない。
――不信でもない。
ただ、自分がいない時間に、桜が傷つく可能性があること。
それが、今まで以上に、許容できなくなっているだけだ。
桜は、何も知らずに前を向く。
「エリアナ様、あの方がいてくださると、本当に助かっています」
その言葉に、クロトは静かに頷いた。
「……そうでしょうね」
声は変わらなかった。
表情も、いつも通りだ。
ただ一つ、胸の奥だけが、静かに、重くなっていく。
自分が傍にいられない時間が、確実に近づいていることを、否応なく突きつけられながら。




