[弐]雫の想い (第五十九話 柔能く剛を制す、後談)
その日は、拓磨様が魁の最終試験にお出かけになりました。私はその間に部屋に籠もりっぱなしの暁を訪れたのですが、説得している内に彼女はムキになって、飛び出してしまいました。
しばらくして今度は強烈な妖気が出現したかと思うと、庭の掃除をしていた華葉が血相を変えて飛んできて、拓磨様の元へ行くと言い出したのです。
そして彼女は私が止めるのも聞かず、暁と同じように屋敷を飛び出していきました。まったく、どうして誰もかれも自分勝手なのでしょう。心配する私の身にもなってほしいものですわ。
仕方ありません。私にできることは皆が帰った時に、安らげる場所を用意することのみです。私は皆が無事であることを願い、夕食の準備に取りかかりました。
拓磨様と華葉がお戻りになったのは、すっかり日も沈んだ黄昏の頃(およそ十九時頃)でした。拓磨様は全身傷だらけで酷く憔悴のご様子でしたが、傷は既に医師の方に治療を受けた後のようで、安静にすれば良いとのことでした。
でも妖怪の奇襲に遭ったため、魁の試験は実施されなかったようです。その対応については、お上とのご相談の上、後ほどお知らせが来ると拓磨様は仰いました。
『そうですか。何はともあれ、お勤め、お疲れ様でした』
「ありがとう。ところで暁はどうした? この敷地内にはいないようだが」
流石は拓磨様、暁の気を感じないことに直ぐに気づきましたわ。
私は正直に事情を説明しました。
『申し訳ございません、私が不甲斐ないばかりに』
「いや、やむを得まい。気の済むまでそっとしておいてやろう」
そうして私たちは夕食を取った後、華葉は疲れて眠ってしまいましたが、拓磨様は珍しく廂で杯を片手に外を眺めておりました。
七月に入ってゆっくりと秋が訪れるはずだったのに、雪の妖怪の術で都の季節は一気に冬へと変わってしまいました。辺り一面の雪化粧をじっと見つめて、拓磨様は物思いに更けておいでです。
『……暁の帰りを待っているのですか』
そう尋ねると、彼は苦笑して私に視線を移しました。
「本当に雫には敵わぬな。お前は読心術でも心得ているのか?」
『見ていれば分かりますわよ、何年ご一緒させていただいているとお思いですの』
そう。あなたに助けられた遠いあの日から、ずっとあなたの傍におりました。
あなたに尽くすことだけが、私ができるご恩返しと思って。
そんな私よりも暁はずっと拓磨様と一緒に過ごしてきています。お二人を結ぶ絆は、私が入る隙間などないと思うほど固いものですわ。
『拓磨様、聞いても良いですか? 暁との出会いを』
「……そうか、雫には話したことなかったのか」
私の願いを快諾した拓磨様は、彼女と式神の契約を結ぶまでを話し始めました。
幼き頃、修行に明け暮れていたある日、烏に襲われる山鳥を見かけたこと。
助けに向かったものの、すでに山鳥は虫の息だったこと。
お父上・尊様の助言で山鳥が精霊化を望んでいるのを知り、拓磨様にとっては初めてとなる式神として、彼女を召喚したこと。
亡くなった生ける者の魂を、この世に縛り付けることに疑念を抱いていた拓磨様は、それまで式神召喚に反対の意を示していたようです。
暁を式神にする時も〝自分が死ぬまで、君は私に縛られることになる〟と訪ねたようですが、彼女はそれを望み受け入れたのです。
「今になっても、暁が何故式神になることを望んだのか分からぬままだ。本当に、昔から変わらぬお転婆なものよ」
拓磨様は笑いながらも、懐かしむように杯を口にしました。
勿論、中身は白湯ですことよ。
『拓磨様が烏に追われる暁を見つけたのは、運命だったのかもしれませんね』
「そうかもな。そういえば、山鳥を助けたのは暁で二羽目なのだ。その何年か前に、罠にかかった山鳥を救ったことがある。山鳥には縁があるやもしれぬ」
そう仰る拓磨様の話を聞き、私はいつもの直感を感じました。
もしかして、それは同じ山鳥だったのではないでしょうか。
山鳥は滅多に人里に下りないと聞きます。そんな山鳥が拓磨様のお屋敷の上空を飛行していた。きっと彼女は助けられた御礼がしたかったのです。その途中で不運にも烏の襲撃に遭ってしまったのでしょう。だから式神になることを望んだ。
分かりますわ。だって私も彼女と同じ思いなのですから。
『あの、拓磨様――』
「……ん?」
それはきっと、と言いかけて私は言葉を飲み込みました。
これは私の口から言うべきことではない。いつかきっと暁の口から語られることでしょう。それまでは私の心に大切にしまっておきますわ。
『いえ、何でも。私も暁も、拓磨様の式神となることができて、幸せ者ですわ』
「私もだ、お前たちが式神で……いや、家族となってくれて嬉しく思っている」
ささやかな私にとっての幸せな夜は、そうして更けていきました。
この先もずっと暁と共に、あなたと……華葉の二人を、支えていけますように。
――ついにその日は、彼女は帰ってこなかったのですけれど。




