朔の夜
月のない空の下、八雲は今、異様な黒ずくめの男と対峙していた。
「朝桐の若君。―――邪魔をしてくれるな」
「・・・お前が、獣を操っている術者なのか」
男は、問いには答えず、小太刀を抜いて構える。八雲は眉根を寄せて、柄に手をかけようとした。それを、斜め後ろから、静かな声が制した。
「若。・・・どうぞ、篝殿のもとへお行きください」
八雲は、慧四郎をちらりと見て、短く言った。
「任せる」
「承知」
低く応じる。主に向かって地面を蹴った男を見据え、慧四郎は鯉口を切った。
「螢火さん!」
突き飛ばされた篝は、散った鮮血を見て、悲鳴を上げた。
「かすり傷です、篝殿」
それは嘘ではなかったが、腕に走った傷は、なぜか火傷のように、じくじくと熱を持っていた。
右に、短刀を逆手に握り、伸ばした左腕で篝を庇う。
怪我をしてくれるなと言われていたのに、若の大切な方に、こんな顔をさせてしまった。螢火は、自分を責めながら、目の前の獣を睨んだ。
尾の先まで入れれば、一丈はあろうか。全身を覆う黒い靄の中に、赤い目が爛々と光っている。
人間が相手ならば、そうそう後れを取らぬ自信があった。しかし、これを相手に、どうやって闘うか―――
そう思った時、隣にいた篝が、螢火の体から離れた。はっとして、腕を取ろうとした時には、篝は走り出していた。
「篝殿!」
慌てて後を追いかけようとして、くらりとよろめく。
螢火を凝視していた赤い目が、駆けて行く篝の背を、とらえた。
鬼灯と二人で、離れへ向かうと、よろめきながらやってくる螢火と出くわした。
「姉貴」
くずおれる螢火を支えた鬼灯が、目を見開く。
「すごい熱だ」
「邪気にあてられたのか」
膝をついた八雲に、螢火は訴えた。
「若、篝殿が、獣を引き寄せて、外へ行ってしまわれました。私のせいです、申し訳ございません!」
八雲は言葉を失い―――一拍置いて、こんな状況だというのに、笑ってしまった。
初めて篝に出会った時のことを、思い出したのだ。
逃げろと言っても、駆け寄ってくる彼女が、大人しく護られていてくれるはずがない。
「休んでいろ。・・・鬼灯、来い」
慧四郎は、黒ずくめの男と、何十合と刃を合わせていた。負ける気はしないが、太刀と小太刀では、間合いが違う。攻めあぐねているものの、時間稼ぎにさえなれば良い、と思っていた。
踏み込んだ瞬間、相手が不意に小太刀を引いたので、眉をひそめた。男は、ざっと飛び退って、距離を取る。耳にとらえられない低い声で、何事か呟いた。
そして、慧四郎に背を向けかける。
「待て!」
呼ばわり、後を追おうとした時、男の腕が、何かを投じるように動いた。ごうっという音と共に、目の前が赤い火炎で埋め尽くされる。
思わず横一文字に太刀を払うと、拍子抜けするほどあっけなく、火の玉は掻き消えた。
しかし、男はすでに、夜闇に紛れてしまっていた。




